竹内俊吉
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日本政治家竹内 俊吉たけうち しゅんきち
生年月日 (1900-02-05) 1900年2月5日
出生地 日本 青森県西津軽郡出精村(現・つがる市
没年月日 (1986-11-08) 1986年11月8日(86歳没)
出身校三田英学校中退
所属政党(日本民主党→)
自由民主党
青森県知事
当選回数4
在任期間1963年 - 1979年
衆議院議員
選挙区青森県第2区
当選回数3
在任期間1955年 - 1963年
衆議院議員
選挙区青森県第2区
当選回数1
在任期間1942年 - 1946年
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竹内 俊吉(たけうち しゅんきち、1900年2月5日 - 1986年11月8日)は日本政治家文人青森県知事青森放送会長などを務めた。長男の竹内黎一も政治家で、科学技術庁長官などを務めた。
目次

1 来歴・人物

1.1 文人として


2 著書

3 脚注

来歴・人物

1900年青森県西津軽郡出精村(現・つがる市)の農家に生まれる。尋常小学校卒業後、三田英学校を中退し、1925年東奥日報に入社。『サンデー東奥』編集責任者、社会部長、整理部長、取締役を歴任。1940年に退社(後に顧問)。青森県議会議員を経て、1942年第21回衆議院議員総選挙で初当選。

第二次世界大戦後は公職追放されたが、追放解除後に民主党公認で出馬した1955年より衆議院青森県第2区で3期連続で当選。第2次岸内閣外務政務次官第2次池田内閣第2次改造内閣大蔵政務次官を歴任。

一方、1953年9月26日から1962年10月28日までラジオ青森社長、後に会長を歴任。

前知事の山崎岩男が病に倒れたのを受け、自民党の候補者調整が難航した後に県連会長として事態を収拾する形で1963年の青森県知事に出馬・当選。むつ小川原開発を推進。「待ちの政治家」と呼ばれた[1]。4期16年にわたる任期の後、副知事だった北村正哉を後継者に指名して引退。1986年11月8日に急性心不全のため逝去。86歳没。

大の相撲好きで、昭和初期の大ノ里清水川鏡岩を始め、多くの青森県出身力士と深い交遊があり、津軽出身の横綱2代目若乃花幹士の後援会長も務めていたこともあった[2]
文人として

竹内は文人としても知られ、青年時代から短歌俳句を投稿・発表したりしていた。東奥日報時代に文学雑誌『座標』を創刊し、小説家として東奥日報紙上に『海峡』を連載していたこともある[3]

政治家となってからも公務の傍らに油絵を描いて政界での展覧会に出品したり[4]、俳句誌『春燈』に投稿を続けるなど精力的な文化活動も続けていた[3]

また、竹内は棟方志功(版画家)、成田雲竹(民謡歌手)を発掘し、その才能を認めて世に出る後押しをした人物でもあった[5]

竹内の生誕110周年であった2010年には、青森県近代文学館にて『竹内俊吉生誕110年展』が開催された[6]
著書

句集『雪』(
1949年、青い森社)

『青森に生きる』竹内俊吉 淡谷悠蔵対談集(1981年、毎日新聞社)

『竹内俊吉の世界』(1988年、青森放送)

脚注^ 40年目の始動/東通原発1号機試運転(1)空前の20基構想/竹内知事が決断促す? - 東奥日報、2004年12月20日、2015年6月6日閲覧。
^竹内俊吉の生涯(八) (PDF) 青森県近代文学館
^ a b竹内俊吉 青森県近代文学館
^竹内俊吉の生涯(六) (PDF) 青森県近代文学館
^ 天地人(東奥日報朝刊コラム) 東奥日報 2010年10月21日付
^企画展「竹内俊吉生誕110年展」 青森県近代文学館










青森県知事(1963年-1979年)
官選

権参事

野田豁通

権令
菱田重禧

北代正臣

池田種徳

参事
塩谷良翰

県令
北代正臣 権令

山田秀典

郷田兼徳

福島九成

知事
鍋島幹

佐和正

牧朴真

河野主一郎

宗像政

山之内一次

犬塚勝太郎

西沢正太郎

武田千代三郎

田中武雄

小浜松次郎

川村竹治

沢田牛麿

道岡秀彦

春藤嘉平

尾崎勇次郎

馬場一衛

緒方惟一郎


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