この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2007年10月)
競技ダンス(きょうぎダンス)は、ダンス演技における技術や芸術要素を競うもので、競技会(コンペ)において競われる。競技で用いられるダンス種目、音楽、服装は社交ダンスとして踊られる物と共通する部分が有る。映画Shall we ダンス?やウリナリ芸能人社交ダンス部の活動のTV放映などを通じて幅広く認知されるようになった。オリンピック競技としての採用も目指している。IOC後援のワールドゲームズでは第5回大会のワールドゲームズ1997から正式競技。アジア競技大会でも2010年から正式競技。障害者のために車椅子ダンス
や視覚障害者のためのブラインドダンスの競技会も開催されている。スポーツ性能が要求されるため、ダンススポーツ(英: dance sport、英: dancesport)とも呼ばれる。競技会によって種目は異なる。1種目の順位で競う単科戦と複数種目の合計順位で競う総合戦がある。スタンダード・ラテン・10ダンス(スタンダード5種+ラテン5種)等の競技区分がある。 年齢区分のある試合がある。 競技ダンスの予選はひとつのフロアで複数のカップル(組)が同時に踊る。審査員の数は7人以上の奇数にするのが一般的であるが、小さな競技会では3人程度の場合もある。 競技会は一次予選から始まる。競技者は各予選にて、12カップル程度(フロアの大きさに依存)に分けられたヒート表を確認し、そのヒート表に基づきフロアに入場する。各ヒート(試合の最小単位)において、すべてのカップルが入場したのを確認したのち、1分15秒から2分間程度の音楽がかけられ、その音楽に合わせてダンスをする。複数の種目がある場合はこれを繰り返す。予選及び準決勝においてはチェック方式にて審査が行われる。審査員はフロア上の各競技者の背番号を確認し、次の予選に進むカップル数分のチェックを各カップルに割り当てる。このとき、同一種目の同一カップルに複数のチェックを割り当てることはできない。次の予選には審査員からより多くのチェックをもらった順に次の予選規定カップル数分選抜され、選抜されたカップルは次のラウンド(予選)に進むことができる。予選全体で各審査員、各種目のチェック総数は決められ、この総数を超えなければ審査員はヒート毎にチェックを増減させることができる。そのため、各ヒートで実力差がある場合は実力差に応じてチェックの数を増減することで調節できる。さらに、ヒート間の公平性を確保するため、ヒート表を作成する段階でコンピュータでランダム化するヒートシャッフルが行われることもある。 ラウンドごとに半数以上のカップルを残すことが決められているので参加組数によって予選の回数は異なる。何度も予選を行い上位選手を絞り準決勝には約12カップル、決勝には6カップル(または7カップル)が進むことができる[1][2]。 決勝戦ではスケーティングシステムという審査方法を採用している。予選とは違い審査員は各カップルに順位を付ける。過半数の審査員が付けた順位で判定するという審査方式である。順位決定は11の規則にしたがって行われる。また決勝ではソロダンスや規定の演技を行う競技会もある。 複数の組が同時に踊り、チェック法やスケーティングシステムによる審査では、各組の演技の一部分しか審査できず、審査員による評価項目・評価基準にばらつきがあるといった問題があった。近年、評価の客観性を追求するため、世界ダンススポーツ連盟 (WDSF) 及び、日本ダンススポーツ連盟 (JDSF) 主催の主要競技会にてソロダンス(1組のみで踊る)の導入及び、新採点法が導入されている。新採点法では下記項目を10点満点の絶対評価で採点し、総合点(40点満点)を競う。決勝にて実施されることが多かったが、2015年の世界選手権において予選、準決勝にも導入された。 順位が決まった後、上位入賞者によって踊られるダンスはオナーダンスと呼ばれる(一般的な言葉としてはエキシビション。)。審査基準、審査員資格、予選毎の最小時間間隔、服装規定等、細かい規則は各競技団体によって異なる。
年齢区分
ジュニアI (年内に12歳13歳の誕生日を迎える者。男女の片方が11歳以下可)
ジュニアII (年内に14歳15歳の誕生日を迎える者。男女の片方が13歳以下可)
ユース(年内に16歳17歳18歳の誕生日を迎える者。男女の片方が15歳以下可)
シニアI(年内に35歳以上と30 歳以上の誕生日を迎える者)
シニアII(年内に45歳以上と40歳以上の誕生日を迎える者)
シニアIII(年内に55歳以上と50歳以上の誕生日を迎える者)
シニアIV(年内に65歳以上と60歳以上、又は男女共60歳以上、又は合計年齢120 歳以上)
競技会の進め方
TQ テクニカルクオリティ
MM 音楽に対するムーブメント
PS パートナリングスキル
CP コレオグラフィとプレゼンテーション
また、ステップミス、ふらつき、転倒、中断などは別途減点となる。演技の映像はすべて記録され、審査員は結果に対する説明責任を負う。
ダンス用語とテクニック詳細は「社交ダンス用語一覧」を参照
歴史
1922年: 初の世界選手権が英国ロンドンのクイーンズ・ホール
日本
1930年: 玉置眞吉のもとに日本舞踏教師協会が発足。
1932年: 赤坂フロリダにて全日本アマチュア選手権が開催された。文献を元に技術の修得を図った「ブックダンス」時代の全盛期だった。
1947年: 敗戦の混乱が続く中、日本社交舞踏教師協会が発足。
1948年: 銀座美松にて戦後初となる競技会が開催された。
1950年: 日本舞踏競技連盟(略称、日競連)が発足。
1951年: 日本舞踏競技連盟が初めて主催する競技会、第1回全日本単科選手権が新橋フロリダにて開催。毛塚睦雄・野中桂子組がワルツ・クイックとも優勝。同年の後期大会では三桝良一・三桝静江組がスローフォックストロットを、毛塚睦雄・野中桂子組がタンゴを制した。
1955年: 英国より当時現役の全英チャンピオンだったレン・スクリプナー&ネリー・ダガン組が招聘され生のデモンストレーションを披露した。1曲目のワルツが終わった時、観客はあっけにとられて拍手を忘れてしまったらしい。レンは当時を振り返って「踊り終わったと拍手がないので、一瞬自分たちのダンスは日本では受けないのかな?」と思ったと言う。彼らのレクチャーが東京と大阪で行われる。これによって書籍によって伝えられてきたブックダンスの時代が完全に幕を下ろす。第5回全日本舞踏選手権が後楽園アイスパレスでレン・スクリプナーの単独審査において開催された。プロモダン4種目総合で優勝したのは伴野八郎・四本恭子組だった。優勝候補の毛塚睦雄組が準決勝敗退。
1956年: 第1回サンケイ杯全日本選抜選手権がスタート。ソニー・ビニックの単独審査により伴野八郎・四本恭子組が優勝。
1962年: メルボルンで開催された第4回世界選手権に初めて代表団を派遣。桝岡肇・桝岡英子組、丸山梅雄・丸山田鶴子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、篠田学・篠田雅子組が参戦。篠田学・篠田雅子組がモダン6位、ラテン7位に入賞した。
1963年: 東京体育館で開催された第13回全日本選手権より正式にラテン種目が加わる。桝岡肇・桝岡英子組が初代ラテンチャンピオンに。同年、桝岡肇・桝岡英子組、篠田学・篠田雅子組は日本人として初めて全英選手権に参戦した。
1965年: 第15回全日本選手権がはじめて日本武道館にて開催された。モダン部門、ラテン部門ともに篠田学・篠田雅子組が優勝。大会の模様はNHKでカラー放送された。
1969年: 第17回全日本選手権(日本武道館)で準決勝戦からは三笠宮崇仁親王も観戦した。モダン部門は篠田学・篠田雅子組、ラテン部門は小嶋鉄治・小嶋滋美組が優勝。
1969年: 世界選手権が初めて日本で開催。日本代表は篠田学・篠田雅子組、小嶋鉄治・小嶋滋美組、斉野友次郎・松浦有希子組、石原市三・石原佳代子組が参戦。
1974年: 第24回全日本選手権(日本武道館)で12歳以下の子供たちによるジュブナイルコンテストがはじめて行われた。
1972年: 競技連盟の自主規制により全日本選手権の一位または二位以外は渡英留学が認められていなかったが、この年留学が自由化される。
1975年: 日本舞踏競技連盟は組織名を日本競技ダンス連盟と改称。