端平(たんぺい)は、中国・南宋の理宗の治世に使用された元号。1234年 - 1236年。このころから始まった理宗の親政・政治改革を「端平更化」という。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}プロジェクト 紀年法 端平元年2年3年
西暦・干支との対照表
西暦1234年1235年1236年
干支甲午乙未丙申
金天興3--
出来事
紹定6年
11月6日:翌年より踰年改元の詔が下る。
端平元年
正月10日:モンゴル・南宋連合軍の挟撃により蔡州が陥落。金は完全に滅ぼす。
3月23日:太常寺の官員を洛陽へ派遣して北宋の帝陵に参拝させる。
4月18日:金の哀宗の遺骨が臨安にある太廟に捧げられる。
6月12日:開封・洛陽・南京の三京を回復するための北伐軍が出征する。
8月:河南に出兵した宋軍がモンゴル軍の反撃に会って敗走する(端平入洛)。
12月15日:モンゴルの王?が臨安を訪れ、盟約の違反を詰責する。
端平2年
正月22日:孟?が黄州に鎮守する。
2月18日:『中書門下後省両司通用条法』が公布される。
5月12日:真徳秀死去。
6月:モンゴル軍が四川・京湖・江淮の3方面を通じて南侵。モンゴル・南宋戦争の開始。
12月5日:万州の盗賊の蒲世興を誅す。
端平3年
3月:宋軍の兵乱により襄陽がモンゴルの手中に落ちる。
4月27日:北伐の失敗と国難を自認する理宗の「罪己詔」が下る。
9月:成都府がモンゴル軍により侵される。
11月:江陵に侵寇したモンゴル軍を孟?が迎撃して破る。
11月25日:宋軍が成都を奪還する。
12月19日:翌年より「嘉熙」へ踰年改元の詔が下る。
他の王朝
モンゴル帝国 - 太宗オゴデイの6年 - 8年
関連項目
元号一覧 (中国)
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