端島_(長崎県)
[Wikipedia|▼Menu]

端島

端島(南西側、2009年撮影)
所在地 日本 長崎県
所在海域五島灘
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度37分40秒 東経129度44分18秒 / 北緯32.62778度 東経129.73833度 / 32.62778; 129.73833座標: 北緯32度37分40秒 東経129度44分18秒 / 北緯32.62778度 東経129.73833度 / 32.62778; 129.73833
面積0.063 km²
海岸線長1.2 km
最高標高47.7[1] m
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}長崎県の地図を表示日本の地図を表示      
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧:西彼杵郡高島町)にある通称軍艦島(ぐんかんじま)[2]。「羽島」とも書いていた[3]

明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。1974年昭和49年)の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島である。

2015年平成27年)、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界文化遺産に登録された[4][5]
地理[ソースを編集]左下が端島、右上が中ノ島。閉山の1974年撮影。(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

同じく炭鉱で栄えていた高島の南端からは南西に約2.5キロメートル[2]の距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。

端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。

端島は元々、南北約320メートル、東西約120メートル[6]の小さな瀬だった[7]。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した[6][8]。その大きさは南北に約480メートル[6][8]、東西に約160メートル[6][8]で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール[9]、海岸線の全長は約1,200メートル[10]。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。

高島町の年間平均気温は15 - 16[11][12]。平均降水量は2,000ミリメートル[11]、冬は比較的雨量が多い[12]。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い[12]

この島には植物が非常に少なく、端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れている。住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気だったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある[13]。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている[13]
歴史[ソースを編集]

端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)、第三期・産業報国期(1914 - 1945年)、第四期・復興と近代化期(1945 - 1964年)、第五期・石炭衰退と閉山期(1964 - 1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 - )に分けられる[14]
第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)[ソースを編集]

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[15]。『天保国絵図』にも「端島」とある[16]

端島での石炭の発見は一般に1810年文化7年)のこととされる(発見者は不明)[17][18][19]が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領野母村高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[20]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[20]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[20][15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:164 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef