章帝
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この項目では、後漢の皇帝について説明しています。

北魏の章帝(鮮卑拓跋部の首長)については「拓跋悉鹿」をご覧ください。

北遼の章帝(契丹迭剌部耶律氏一門については「耶律淳」をご覧ください。

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章帝 劉?
後漢
第3代皇帝
王朝後漢
在位期間75年9月5日 - 88年4月9日
都城?陽(洛陽
姓・諱劉?
諡号孝章皇帝
廟号粛宗
生年建武中元2年(57年
没年章和2年2月30日
88年4月9日
明帝
母賈貴人
后妃竇皇后
陵墓敬陵
年号建初76年 - 84年
元和(84年 - 87年
章和(87年 - 88年)

章帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。
目次

1 生涯

2 子孫

3 年譜

4 妻子

4.1 后妃

4.2 男子

4.3 女子


5 脚注

6 参考資料

生涯

60年永平3年)に3歳で皇太子に立てられ、75年(永平18年)に父の明帝が死去すると、19歳で即位した。同時に義理の母である馬皇后光武帝の有力部将馬援の娘)が皇太后に立てられて後見した。馬皇太后は身を慎み、実家の馬氏一族が高位に取り立てられることを拒んだので、章帝の時代には、後漢王朝の宿弊となった外戚の専権が表に現れることはなかった。生母の賈貴人は、明帝の正妻である馬皇后と従姉妹同士で仲が良かったといわれる。

父の明帝が法治政治を行ったのに対し、章帝は幼少の頃から儒学を好み、儒学の徳目に適った寛容な徳治政治を敷いた。そのため、経済や文化は大きく発展した。

78年(建初3年)、竇氏を皇后に立てる。

79年(建初4年)、自ら詔を下して宮中の白虎観に儒者を集め、五経のテキストの異同を議論させた。自身も会議に臨席するほど熱を入れて取り組み、史臣班固に命じてこの会議をもとに古今の学説をまとめた『白虎通義』を編集させた。

西域との交通は、の滅亡後から後漢の初め頃まで一時途絶えていたが、明帝のときに再び本格的な進出が始まった。章帝の時代も匈奴とそれに組みする西域諸国との戦いが続き、章和元年(87年)には、班超らの活躍により、長らく漢に叛いていた莎車を服属させることに成功した。

馬皇太后の死後(79年(建初4年))、皇后の竇氏は子がなかったため、皇太子劉慶の生母宋貴人と別の皇子劉肇を生んだ梁貴人を憎んでおり、讒言して2人とも死に追いやった。劉肇は皇后の養子となった。

82年(建初7年)、皇太子劉慶を廃して清河王とし、皇子劉肇を皇太子に立てる。

88年(章和2年)、32歳で死去した。その後、10歳の劉肇が和帝として即位し、和帝の擁立を取り仕切った竇氏は皇太后として幼い皇帝に代わって政治を執り、その実家の竇固を初めとした竇氏一族が権勢を振るうようになった。こうして後漢は、外戚によって政治を左右される時代に入り、支配体制に揺らぎが生じるようになった。
子孫

後漢はその時々に権勢を振るった外戚が、幼児や少年を皇帝として擁立することが繰り返したため、直系の皇位がしばしば断絶し、和帝、安帝少帝質帝桓帝霊帝と、傍系から皇帝を立てることが繰り返されたが、いずれも皇帝への擁立は章帝の子孫から行われている。

章帝の男子には、馬皇太后の親族である宋貴人を母とし、生まれてすぐに皇太子に立てられた劉慶、和帝として即位した劉肇の他に、伉、全、寿、開、淑、万歳の8子がいた。章帝が最初に立てた皇太子劉慶は、側室の宋貴人が生んだ男子だった。その後、竇皇后が宋貴人と、劉肇を生んだ梁貴人を死に追いやった。建初7年(82年)、5歳であった劉慶は廃され清河王とされ、劉肇が皇太子となる。章和2年(88年)、章帝は亡くなり、劉肇が即位する(和帝)。しかし、このような経緯があっても、和帝は皇太子のころから兄劉慶との兄弟仲が深くいつも行動をともにしており、即位後も兄を身近に置いて私事を議すほどで、劉慶も皇帝となった弟を立てて忠実に仕えた。和帝の死の翌年、和帝の子の殤帝が没すると、劉慶の長男劉?が和帝の未亡人で実権を握ったケ皇太后によって皇帝に擁立され、安帝となる。

また、その他の皇子もみな王に封ぜられて諸侯王となるが、済北王に封ぜられた劉寿の子から安帝の死後に擁立された少帝、勃海王に封ぜられた劉伉の曾孫から安帝の孫沖帝が3歳で死去したあと擁立された質帝、河間王に封ぜられた劉開の子孫から毒殺された質帝に代わり皇帝に立てられた桓帝、霊帝の2帝が出た。
年譜

明帝は、馬貴人に子がない故に、命じて賈氏(馬貴人の前母の姉の娘)の生んだ劉?を養わせる。

永平3年(60年)に、劉?は3歳で皇太子に立てられた(馬貴人は同年に皇后に立てられた)。

永平18年(75年)秋8月、父の明帝が死去し、劉?は19歳で即位した(章帝)。養母である馬皇后を皇太后とし、明帝を顕節陵に葬った。冬10月、大赦を実施すると共に詔勅を出し、太尉であった趙憙を太傅とし、司空であった牟融を太尉・録尚書事とした。11月、蜀郡太守の第五倫を司空とした。征西将軍の耿秉に命じて酒泉に駐屯させ、酒泉太守の段彭を遣わせて戊己校尉の耿恭を救わせた。この年に牛疫が発生し、また京師と三州に大きな旱があったため、詔を出し、?、豫、徐州において施しを実行した。

建初元年(76年)春正月、前年に起きた疫病と災害の対策の詔勅を出した。酒泉太守の段彭が車師を討ち大いに破った。戊己校尉の官を罷免した。2月、武陵の?中蛮が反乱を起こした。3月、山陽と東平で地震が起きた。章帝は詔勅を出し人材を募った。9月、永昌哀牢夷が反乱を起こした。


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