たちばな りょうすけ
立花 良介
本名同
別名義立花 了觀 (たちばな りょうかん)
生年月日1886年
没年月日1965年2月10日
出生地 日本 福岡県築上郡椎田町(現在の同県同郡築上町大字椎田)
死没地 日本 東京都目黒区下目黒
職業実業家、映画プロデューサー、右翼活動家、元民間飛行家
ジャンル劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
配偶者有
著名な家族古市静子 (妻の姪)
阪東妻三郎 (妻の姪の夫)
古市良三
立花 良介(たちばな りょうすけ、1884年 - 1965年2月10日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、右翼活動家であり、元民間飛行家である[1][2][3][4]。号は了觀(りょうかん、新字体表記了観)[4]。東亜キネマ常務取締役、帝国キネマ演芸専務取締役、新興キネマ常務取締役を歴任、阪東妻三郎プロダクションを経営した[1][2][3]。多摩帝国美術学校(多摩美術大学)理事を務めた。[5] 1886年(明治19年)、福岡県築上郡椎田町(現在の同県同郡築上町大字椎田)に生まれる[6]。 1904年(明治37年)3月、旧制中学校・福岡県立豊津中学校(現在の福岡県立育徳館高等学校)を卒業する[6]。中学の先輩であるのちの元帥・杉山元(1880年 - 1945年)とは、終生、非常に親しい関係にあった[6]。アメリカ合衆国のカーティス飛行学校
目次
1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
3 ビブリオグラフィ
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
人物・来歴
留学中に映画産業に興味を持ち、国際活映に入社、同社の大阪支店長を務める[8]。1923年(大正12年)12月、八千代生命が兵庫県西宮市甲陽園にあった甲陽撮影所を買収して東亜キネマを設立するにあたり、映画の実務を知る人間として、岩岡商会の岩岡巽とともに招かれ、ともに常務取締役に就任、岩岡は甲陽撮影所長、立花は営業部長を委嘱された[8]。1924年(大正13年)、総会屋の立石駒吉が、等持院撮影所をもつ牧野省三のマキノ映画製作所の買収を東亜キネマの経営陣に提案、八千代生命系の専務取締役関伊右衛門も、実務家の立花もこれに賛成して、牧野の長女の夫であった高村正次が牧野の説得にあたり、同年6月25日、合併・合流が調印された[9]。当時、関と立花は対立が深まっていたとされ、立花が病気療養中であった1925年(大正14年)1月、関不在の折に、同社の社用車の運転手が本社専務室に乱入、関の机を破壊、関と同社専属女優の絵島千歌子との間の不適切な関係を暴露するという事件が起きた[10]。立花はこれを機に関の公私混同を指摘、関と絵島との関係も表沙汰になったが、立花・関いずれも同社を去ることとなる[10]。 『雄呂血』(1925年)。
同社を退社した立花は、独立して一立商店を設立、映画の配給業務等を開始するが、同年6月には、同社の製作部長であった牧野省三が退社、マキノ・プロダクションを設立、同年7月には、阪東妻三郎も東亜キネマを退社、同年9月には、阪東は阪東妻三郎プロダクションを設立している[11][12][13][14]。同プロダクションの第1回作品『異人娘と武士』(脚本・監督井上金太郎)は、牧野省三も阪東を支援して「総指揮」に名を連ね、当時牧野と連携していた高松豊次郎のタカマツ・アズマプロダクションの撮影所を使用して製作、マキノ・プロダクションが配給して、高松が経営する浅草公園六区の大東京を皮切りに同年9月25日に公開された[12][14][15]。第2回作品『雄呂血』(原作・脚本寿々喜多呂九平、監督二川文太郎)にも牧野が「総指揮」、当時牧野と連携していた中川紫朗の中川映画製作所の撮影所を使用して製作、マキノ・プロダクションが配給して、浅草・大東京を皮切りに同年11月20日に公開された[12][14][16]。第3回作品『魔保露詩』(原作・脚本・監督志波西果)も前作同様に製作・配給され、同様の劇場で同年12月31日に公開されている[12][14][17]。同作がマキノ・プロダクションの正月作品として興行された直後に、阪東妻三郎プロダクションは松竹キネマと製作と配給において提携し、第4作『尊王』(原作・脚本・監督志波西果)以降は、松竹下加茂撮影所を使用し、松竹キネマが配給することになり、牧野と訣別することになる[12][14][18]。このオペレーションを行なったのが立花であり、立花は松竹キネマから得た資金をもとに、1926年(大正15年)5月2日、「合名会社一立商店阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」(現在の東映京都撮影所)を開設した[12][13][14][19]。