立花 義家サムスン・ライオンズ 育成軍野手コーチ #76
基本情報
国籍 日本
出身地福岡県大牟田市
生年月日 (1958-10-27) 1958年10月27日(65歳)
身長
体重180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1976年 ドラフト1位
初出場NPB / 1978年4月1日
CPBL / 1993年3月12日
最終出場NPB / 1992年10月10日
CPBL / 1993年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
柳川商業高等学校
クラウンライターライオンズ
西武ライオンズ (1977 - 1991)
阪神タイガース (1992)
俊国ベアーズ (1993)
コーチ歴
福岡ダイエーホークス (1998 - 2001)
オリックス・ブルーウェーブ (2002 - 2003)
西武ライオンズ (2004 - 2007)
福岡ソフトバンクホークス (2009 - 2012)
千葉ロッテマリーンズ (2013 - 2016)
福岡ソフトバンクホークス (2017 - 2021)
東北楽天ゴールデンイーグルス (2022)
サムスン・ライオンズ (2023 - )
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立花 義家(たちばな よしいえ、1958年10月27日 - )は、福岡県大牟田市出身の元プロ野球選手(外野手, 一塁手)・コーチ。 「義家」という名前は、源義家にあやかって祖父が命名した。 大牟田市立勝立中学校2年時は投手で、4番・エースの中心選手として地区優勝に導く[1]。柳川商業に進学し、野球部では投手として入部したが、同期入部の久保康生を主力投手として起用することになったため、外野手や一塁手での起用が増える[1]。2年次の1975年、春の選抜に中堅手として出場するが、1回戦で堀越高に敗退[2]。同年夏も県予選決勝に進出するが、小倉南高に敗れる。1年上のチームメイトに加倉一馬がいた。3年次の1976年には夏の甲子園で同期のエースである久保康生を擁し、1番・一塁手として出場。三重高を降して3回戦に進出するが、PL学園の中村誠治(早大 - 日産自動車)に抑えられ0-1で惜敗[3]。 「左の原辰徳」と呼ばれ、1976年11月19日に行われたプロ野球ドラフト会議にてクラウンライターライオンズに1位指名される。当時、希望球団はこの前年(1975年)に初優勝を果たした広島で、広島のスカウトからも1位か2位で指名するという話を聞いていたが、指名順11番目の広島より先に7番目のクラウンに指名される。広島以外の球団に指名されたら松下電器野球部に入ることになっていたが、周囲から「高校生の野手で1位指名なんてあまりないことだから」と背中を押されてクラウン入りを決意[1]。 高校卒業後の1977年にクラウンライターライオンズへ入団。プロ入り後は主に外野手として起用され、2年目の1978年には島原キャンプで臨時コーチを務めた松木謙治郎に「張本勲二世」と評され、根本陸夫監督がレギュラーに抜擢。開幕戦で3番に座り「19歳の3番打者」として注目を集めた。同年は規定打席(27位、打率.250)にも到達。クラウンライターとして最後の試合であった平和台での日米野球「クラウン+巨人連合軍」対シンシナティ・レッズ戦では、4番・王貞治の次の5番打者を任された。所沢移転後も主力選手として活躍し、1979年には西武球場公式戦初本塁打を放ち、これがプロ入り初本塁打となった。 1980年にはチーム最高打率.301(リーグ13位)を記録、18本塁打を放った。
来歴・人物