凡例立花忠茂
立花忠茂像(福厳寺蔵)
時代江戸時代前期
生誕慶長17年7月7日(1612年8月3日)
死没延宝3年9月19日(1675年11月6日)
改名千熊丸(幼名)、貞之、忠之、忠貞、忠茂、好雪(号)
別名大助、左近将監(通称)
戒名別峯院殿忠巌好雪大居士
墓所東京都文京区小日向の徳雲寺
官位従五位下左近将監→従四位下、侍従、飛騨守
幕府江戸幕府
主君徳川秀忠→家光→家綱
藩筑後国柳河藩主
氏族立花氏
父母父:立花直次、母:永雲院[1]
養父:立花宗茂
兄弟種次、種吉、政俊、忠茂、虎、種元
立花 忠茂(たちばな ただしげ)は、江戸時代前期の大名。筑後柳河藩の第2代藩主。立花直次の四男で、立花宗茂の甥で養嗣子。初名は貞之で、諱は忠之、忠貞、忠茂。剃髪して好雪と号す。 慶長17年7月7日(1612年8月3日)、立花直次の4男として誕生。母は筑紫広門の娘・永雲院[2]。生まれたその日に実子がいなかった伯父宗茂の養嗣子となった。 元和8年(1622年)12月27日、11歳の元服の時、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の殿上において加冠し、偏諱を授かって忠茂と改め、左文字の刀を賜った。 将軍の相伴衆として江戸に詰めていた養父に代わり、寛永6年(1629年)頃には事実上藩政を司るようになった。同年正月5日、従五位下・左近将監に叙された。翌年11月3日頃に永井尚政の娘・長子姫との婚儀が行われている 寛永14年(1637年)4月3日、所領を相続。11月に島原の乱が勃発すると出陣。12月18日に上使板倉重昌の配下で原城攻めの寄せ手に加わり、19日払暁、鍋島勢が抜け駆けをして西の松山を奪取しようと突撃をかけたので、これに呼応して忠茂勢も西の丸の堀際まで深く攻め入ったが、板倉の再三の引き揚げ命令を受けて退いた。翌寛永15年1月1日(1638年2月14日)の総攻撃の際には、浜側の寄せ手に加わっていて戦闘には参加しなかった。2月11日、一揆勢の夜襲があったがこれを撃退。2月27日、最後の総攻撃の前日にまた鍋島勢が抜け駆けをして戦闘を開始したので、忠茂もこれに加わり、三の丸を奪取して本丸に火をかけた。28日の総攻撃では忠茂自ら詰の丸(本丸)に突入して落城させた。 寛永15年(1638年)[3]、宗茂の致仕により正式に家督を継いで柳河藩の第2代藩主となり、藩政の安定に努めた。寛永17年(1640年)7月18日、将軍家光より延寿国時の刀を賜る。寛永18年(1641年)正月、従四位下に叙される。寛永19年(1642年)5月、柳川城の改修のために(特別に)暇をもらう。 寛永21年(1644年)4月18日、将軍家光の上意により、仙台藩2代藩主伊達忠宗の長女・鍋姫と結婚した。 正保3年(1646年)に永興寺(現在の福岡県みやま市)に東照宮を勧請した。 将軍家綱の代になり、明暦3年(1657年)12月に侍従に叙され、万治3年(1660年)12月に飛騨守に改める。この頃、義弟[4]にあたる仙台藩第3代藩主・伊達綱宗が引き起こした伊達騒動では、親類として鎮静化に大きく関与した。 寛文4年(1664年)閏5月7日に致仕し、四男・鑑虎に家督を譲って隠居。隠居後は好雪と号す。 延宝3年9月19日(1675年11月6日)に死去。享年64。江戸小石川の徳雲寺に葬られた。法号は別峯院殿忠巌好雪大居士。
生涯
官職履歴
寛永6年1月5日(1629年) - 従五位下左近将監に叙任。(後水尾天皇口宣案)
寛永17年12月29日(1640年) - 従四位下左近将監に昇任。(明正天皇口宣案)
明暦3年12月27日(1657年) - 侍従に叙任。(後西天皇口宣案)
万治3年12月28日(1660年) - 飛騨守に転任。
系譜
父:立花直次(1572-1617)
母:永雲院
養父:立花宗茂(1569-1643)
正室:長姫 - 永井尚政の娘
長男 - 早世
継室:鍋姫(1623-1680)、法雲院 - 徳川秀忠の養女、伊達忠宗の娘
次男:千熊丸(1645-1646) - 早世
四男:立花鑑虎(1646-1702)
六男:立花茂辰
七男:矢嶋茂堅(1649-?) - 家臣矢嶋主水俊行養子
四女:久姫(1652-1653)
八男:立花貞晟(1660-1720)
八女:呂久姫(1662-1708)、心空院 - 立花鑑虎の養女、黒田綱政正室
側室:光行氏
三男:立花茂虎(1644-1701)
側室:佐々木氏
九男:矢嶋虎重 - 家臣矢嶋石見行和養子
生母不明の子女
女子
女子
三女:娘 - 小野真俊室
女子
五男:輝千代
五女:久満姫(熊姫) - 永井尚房正室
六女:娘 - 由布惟長室
七女:娘 - 立花鎮俊室
女子
脚注^ 筑紫文書
^ 寛政重修諸家譜百十二では岡氏と記述。
^ 『大猷院殿御実紀』(『徳川実紀』)の記述から襲封を寛永16年4月3日とする説があるが、「江戸幕府日記」の同日条には先に在国のまま襲封した礼に上がったとの記述があり、他の記述からも前年に襲封したと見るのが妥当。中野等 『立花宗茂』 吉川弘文館、2001年、242-246頁。
^ 忠茂の継室が伊達忠宗の娘。
参考文献
堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 立花氏」『寛政重修諸家譜』。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577318/72 国立国会図書館デジタルコレクション。
大日本人名辞書刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 立花忠茂」『大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879535/61 国立国会図書館デジタルコレクション。
「日本歴史地名大系第41巻・福岡県の地名」(2004年・平凡社)
『新訂寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会、1964年)
表
話
編
歴
立花氏柳河藩2代藩主 (1639年 - 1664年)