立石_(葛飾区)
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 東京都 > 葛飾区 > 立石

立石
町丁
立石全景(国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真を元に加工、2006年)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度44分36秒 東経139度50分50秒 / 北緯35.743356度 東経139.847258度 / 35.743356; 139.847258
座標位置:葛飾区役所付近
日本
都道府県 東京
特別区 葛飾区
地域立石・四つ木地域

人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1]
 人口23,178 人
 世帯数12,663 世帯

面積[2]
 1.371106264 km²
人口密度16904.6 人/km²
郵便番号124-0012[3]
市外局番03(東京MA[4]
ナンバープレート葛飾
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京成立石駅立石様玉垣の中の立石様

立石(たていし)は、東京都葛飾区地名。現行の行政地名は立石一丁目から八丁目。住居表示実施済区域。
地理

葛飾区中西部、中川の西岸に位置し、亀有の約3km南方にある。葛飾区役所の所在地でもあり、葛飾区の行政の中心地を担っている。町域は西は国道6号を、南西部は東京都道308号千住小松川葛西沖線(平和橋通り)を境に四つ木に接している。南は奥戸街道を境に東立石に、東は中川を境に奥戸にそれぞれ接している。かつては湿地帯を開拓した水田が広がり、海抜ゼロメートル地帯である。

町の北東にある京成本線青戸との町界になっている。京成本線と青砥駅で合流する京成押上線が貫いており、地域の中心である京成立石駅が所在する。駅前には立石仲見世商店街の他、立石駅前通り商店街、スーパーマーケットヨークフーズ立石店)などがひしめく。安い居酒屋スナック、バーが多い「せんべろの街」としても知られていた[5]。だが路地は車の通行が困難なほど狭く、駐車スペースもほとんどない。建物の老朽化などもあり、京成押上線の高架化に合わせた駅前の大規模再開発が進められており、北口では2023年9月の工事開始を前に移転、廃業した店が目立つ[5]

町内の商業エリアとしてはこのほか、区役所周辺(オリンピックサミットコジマなど)、奥戸街道沿いなどがある。周辺はかつて中小の工場が多い土地柄であったが、近年はその跡地を利用したマンション建設が盛んである。

町内には葛飾区役所のほか、葛飾税務署、葛飾警察署かつしかシンフォニーヒルズ(文化会館)、葛飾エフエム放送などの公共施設が集中しており、葛飾区の行政上の中心地である。町名の由来となった立石様安倍晴明が勧請したと伝えられる立石熊野神社などの史跡がある。

一方、東立石は中川湾曲部に囲まれた袋状の地域で、町内には本田消防署、渋江公園などがある。

なお、現在の立石、東立石、四つ木、東四つ木・宝町を合わせた地域は、1965年から1966年住居表示が実施されるまで本田(ほんでん)と呼ばれていた。本田消防署の名、葛飾警察署の旧称本田警察署の名はこれに由来している。
地価

住宅地の地価は、2023年令和5年)1月1日公示地価によれば、立石2-5-10の地点で34万4000円/m2、立石5-23-2の地点で35万円/m2となっている[6]
歴史
古墳時代から中世古代道路と推定される道(立石道)
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工江戸名所図会 19巻 立石村 立石[7]『上代の東京と其周囲』に掲載されている立石祠の写真[8]

古墳時代後期には既に拓けていたと考えられており、立石様のある立石八丁目の周辺には南蔵院裏古墳(明治時代に破却)や熊野神社古墳といった古墳跡の存在が確認されている[9]

立石様自体も近郊の古墳の石室と同質の房州石(凝灰岩)であることが解っており[10]、この頃、現在の千葉県にある鋸山付近より同地に持ち込まれ、奈良平安時代には立石付近を横断していた古代の官道東海道)の道標として転用されていたと考えられている[11][12]

室町時代1398年応永5年)に記された「葛西御厨田数注文」に地名としての立石が初めて登場する[13]
江戸時代立石付近の中川河道の変更の様子 (写真撮影は1944年)
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真8912-C3-216 を元に加工江戸時代・明治時代の帝釈詣の主要道。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工

江戸時代西葛西領のうち主に新田開発前から田畑のあった立石地域は隣接する向島地域とともに本田筋に区分されていた[14][15]。『葛西誌』によれば、立石村は当初広大だったため、江戸時代の初め頃、川端村、原村、梅田村、四ツ木村、篠原村、中原村、淡ノ須村の7村が分村したという[16][17]。また、享保年間には立石村の東端にあたる中川の河道を現在のように短絡させる工事が行われている[18]。このとき中川の外側に残された地域は「立石新畑」と呼ばれていたが[19] [17]、この跡は2018年現在、奥戸総合スポーツセンター(奥戸7-17-1および高砂1-2-1)などになっている。

この時代、この地域はやその他の農産物を江戸に供給する農村地帯であった。また本田ウリ[20]と呼ばれるウリが当地の特産物であった[21]。また、農産物の生育のため江戸で発生した下肥を利用するだけでなく、立石にはこれを運搬、販売することを生業とするものもいた[22]

また、江戸後期より鉄道の普及する明治後期までは庚申の日に江戸(東京)市中より、柴又帝釈天に徒歩で参詣する帝釈詣が行われており、立石はその通り道となっていた。亀戸方面から木下川薬師を経て立石に至る「薬師道」と浅草方面から四ツ木を経て立石に至る「立石道」の合流点が現在の本奥戸橋西詰にあり、中川に沿って少し北上した後、立石様の付近で諏訪野渡方向に左折し柴又帝釈天に至る経路であった[23]
明治時代

1869年(明治2年)から1871年(明治4年)の約3年間、立石のある地域一帯は小菅県に属していた。続いて東京府に編入されると大区小区制のもと当初第六大区十一小区、ついで第十一大区一小区に属した[24][25]1889年(明治22年)4月、町村制施行によって江戸時代より続く立石村、梅田村、川端村、原村、中原村、淡之須村、篠原村、渋江村、四ツ木村、宝木塚村の十の村を合わせて南葛飾郡立石村が成立した[26]。この際、合併前の村名は大字名として存続した。なお立石村は1890年(明治23年)に本田村と改称している[27]

村役場は当初、現在の東立石3丁目にあったが[28]、明治35年(1902年)頃に現在の葛飾区立立石図書館の位置に移転した。

また、明治35年(1902年)には村役場の隣接地に本田尋常小学校が移転されている[29]

なお当時より現在にいたるまで立石は中川での釣りを目当てに、近隣から人が訪れる場所でもある[30]。明治末期の中川での釣りの様子は幸田露伴短編小説「蘆声」にも描かれている[31]
大正時代から葛飾区成立まで立石2丁目および3丁目の様子 (2006)。
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの写真CKT20064X-C4-8 を元に加工浜野繊維工業の跡地にある記念碑(東立石児童遊園内)

一方、近代化に伴い、それまでの農村地帯は急激に変貌を遂げていった。1912年(大正元年)11月には京成電気軌道が開業し、京成立石駅が開設されたことで、東京市部との移動が容易になった[32]。次いで1914年(大正3年)4月には中川に木製の奥戸橋(旧橋)が架橋されて、奥戸村との間を渡船を利用せずに移動可能になった[33]。なお、開業時の京成電気軌道の線路は現在の位置と異なり奥戸街道上の併用軌道であり、立石駅舎も現在地より東に位置していたが1923年(大正12年)12月に現在ある軌道に変更、立石駅も移転して現在の位置での営業を開始した[34]

また、1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災では本所深川浅草などから発生した罹災民が比較的距離の近い本田村へ流入し、以降地域は急速に人口増加・宅地化した[35]。なお現在でも、立石や東立石の多くの場所で方形に整然と区画整理されている地域がみられるが、これらは1922年(大正11年)頃から昭和初年にかけて、宅地化を目的に行われた耕地整理事業の産物である[36]。なお立石駅の移転開設のもう一つの理由には、1923年6月に組織された「立石耕地整理組合」が耕地整理地域の中心に新しい駅を据えて設計を行ったためというのもあった[37]

また同時期に工業化も進み、1914年(大正3年)には現在の渋江公園の位置で、千種セルロイド工場が操業を始めた。これがこの地域における玩具産業の嚆矢となり、その後多くのセルロイド工場が立石や四つ木地域に集まってきた。現在でも、玩具産業の割合が高いのがこの地域の工業の特色の一つとなっている。更に中川の水が利用できたことから、江戸友禅を中心に染色工業なども発達した[38]


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