立法議会
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この項目では、フランス革命期の議会について説明しています。その他の用法については「立法議会 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

立法議会
Assemblee legislative
フランス立憲王国
立法議会記章
種類
種類一院制
沿革
設立1791年10月1日
廃止1792年9月20日
前身憲法制定国民議会
後継国民公会
定数745
議事堂
テュイルリー宮殿調馬の間(英語版) (パリ)

立法議会(りっぽうぎかい、: Assemblee legislative)は、フランス革命期の1791年10月1日から1792年9月5日まであった、フランス立憲王国立法府である。フランス初の立憲君主制政体の議会であった。一院制で、憲法制定国民議会によって制定された1791年憲法に従って召集され、8月10日事件の後、国民公会のための議員選挙を行ってから解散した。正式名称は立法国民議会(: Assemblee nationale legislative)であり、立法議会は略称である。
概要

1789年8月26日フランス人権宣言の原理は、その後の革命の急展開により修正を迫られた。平等主義の萌芽が慎重に取り除かれた1791年憲法では、人権宣言は冒頭に掲げられてはいるが、言論や身分的、あるいは経済的な自由の保証に留まって、ブルジョワジーの優位を確定するような方向で、議会や選挙制度にも制限が設けられた。同法においては、市民権は全フランス人が持つわけではなかった。参政権は「大きな社会的企業の株主たる」[1]能動的市民(男性)に限定された。受動的市民は「公権の形成に積極的に参加する」[1]権利を持たないとされ、300万人とも言われる無産市民は選挙権被選挙権を持たず、政治から排除された。土地改革も棚上げ状態で、2000万ともいわれる農民は最初から無視されていた。さらに代議制は二重の間接選挙制で、有権者議員を選ぶ選挙人を選ぶという方式であり、選挙人となるにはさらに厳しい財産資格が設定されていた。このため当時のフランスの有権者は約430万人と人口の17%ほどとなり、選挙人に至っては5万人程度と推定され、それは人口の0.2%ほどに過ぎなかった[2]。よって実際には、アンシャン・レジームの頃の貴族や僧侶といった特権身分が独占していた政治参加の権利が、そのままブルジョワジーに入れ替わっただけでなく、身分制議会のときよりも有権者の数が減ったという点においては民主主義の後退で、事実上、上流ブルジョワの政治独占を意味した[注釈 1]。「旧体制の廃墟の上に自由主義原理を打ち立てた」と表現されるこの体制を、91年体制と呼ぶが、パリのサン・キュロットにとっては大いに不満の残る制度だった。

1791年9月30日憲法制定国民議会が目的を達して解散した時、議員ロベスピエールの提案により、法を作った者がその法の恩恵に与るのはいかがなものかということで、制憲議員であった者は新議会にはなれないように決議されたが、結果的に10月1日に集まった立法議員はほぼすべてが新人議員という経験に乏しい議会となった。「国民議会」は継続されたが、議員を総入れ替えしたわけである。しかし未熟な政治は、いたずらに対立するばかりで、無計画の戦争を起こしたり、党派主義による政治の停滞を招き、従来の財政再建といった宿題を解決できぬまま、戦況の悪化や、ルイ16世拒否権乱発の前にさじを投げ、崩壊するに至った。空の国庫、暴落する為替通貨、アッシニアは紙同然となり、規律のない陸軍、士官のいない海軍、国内外の混乱と混沌が後には残された。これらが立法議会が1年も続かずに短命に終わった原因である。

1792年8月10日事件で起こったことの背景には、共和派が自治市会(パリ・コミューン)のような直接民主制をベースにした民衆の直接行動を原動力としたことにあり、フランス革命の主体は、ブルジョワジーからサン・キュロット(別の言い方をすればプロレタリアート)に決定的に移っていった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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