立正佼成会立正佼成会大聖堂〈本部修養道場〉
大聖堂(東京都杉並区和田)
設立1938年3月5日 (86年前) (1938-03-05)
種類宗教法人
法人番号6011305000471
立正佼成会(りっしょうこうせいかい)は、日本の仏教系新宗教およびそれを信仰する宗教団体(宗教法人)。霊友会から派生した日蓮系・法華系の宗教。文化庁『宗教年鑑 令和5年版』における信者数は、1,985,809人[1]。 西田無学が提唱した、在家が法華経によって先祖供養を行うという点では霊友会と同じである。ただ、法華経の一乗思想と根本仏教の融合が特徴と言える[2]。人間の内面の修養を行いつつ、自他共に救われる修行を推奨(教団では「心田を耕す」と呼ぶ)している。また、リーダーを中心に生活や信仰の悩みを互いに語り合う「法座」という活動も特徴である[3]。
本尊・教義
本尊
久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(立像または立画を表装したもの)
経典
開結「法華三部経」(訓読)(無量義経・妙法蓮華経・仏説観普賢菩薩行法経)
主な教義書
「新釈 法華三部経」「法華経の新しい解釈」「仏教の根本義」「仏教のいのち法華経」
歴史
1938年 - 1957年庭野日敬
創立の1938年から1957年の長沼副会長死去までの20年間を『方便教化の時代』と呼んでいる。方便とは、まず現実の苦しみを救うことをいう。
霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(新井支部・副支部長)と、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政は、彼らが所属していた新井支部(当時は支部をまとめる責任者の名前で支部名が呼称されていた)支部長で法華経行者であった新井助信の勧めもあり、1938年3月5日に「大日本立正交成会」(現在の名前に改称されたのは1960年6月1日)を創立した[注釈 1]。会の創立に当り、庭野鹿蔵は「日敬」、長沼政は「妙佼」と改名して戸籍登録した。庭野開祖会長は、霊友会を離脱した理由について、霊友会会長・小谷喜美の「法華経の講義なんか時代遅れだ、そんなことをするのは悪魔だ」という発言を聞き、法華経への理解をおろそかにして、真の供養を行えるとは到底思えないと感じたからだとしている。
「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の姓名判断・霊能指導[注釈 2]によって、「貧病争」の苦しみから救い、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時、第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていたため、それらの人々を救うためには、方便が必要であったという。
一方で、戦後急激に拡大した教勢がマスコミの注目を集め、1956年、読売新聞が本部用地の取得にあたる不正疑惑を報道した(読売事件)。庭野開祖会長が国会に召喚され、事態を説明するに至っている。
1938年
3月5日 庭野日敬(鹿蔵)は長沼妙佼(政) 他30数名と共に「大日本立正交成会」を創立(会長 村山日襄、副会長 石原叔太郎)
3月20日 庭野日鑛:現会長(当時・浩一)が誕生
1942年
5月7日 本部修養道場(現:発祥の地修養道場)落成・入仏式を挙行
1943年
4月頃 村山日襄会長、石原叔太郎副会長がそれぞれ退任。後継として実質の運営・指導者である庭野と長沼がそれぞれ「開祖会長」「副会長」となり、名実ともに庭野会長・長沼副会長体制がスタートする
1945年
11月15日 本尊「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を尊牌形式で勧請
1948年
8月11日 宗教法人令により、宗教結社「大日本立正交成会」から宗教法人「立正交成会」となる
1949年
8月28日 青年部(現:青年本部)が発足
1951年
6月5日 母子の無理心中を布教活動の行き過ぎによるものと報道され、日弁連人権擁護委員会や衆議院法務委員会が取り上げた(いわゆる蔵敷事件。母子心中と教団との直接の関係はなく、関係があったのは、創価学会の方であった。夫も訴訟をすぐに取り下げた)
10月17日 新宗連(新日本宗教団体連合会)が発足、加盟。[4]