立教大学硬式野球部
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立教大学硬式野球部平成29年度 東京六大学野球 春季リーグ戦 優勝
(平成29年5月29日 表彰式 明治神宮野球場)
加盟団体東京六大学野球連盟
本拠地埼玉県新座市北野1-2-35 智徳寮
創部1909年[注釈 1]
監督木村泰雄
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績優勝 13回
全日本大学野球選手権大会
出場回数5回
最高成績優勝 4回
明治神宮野球大会
出場回数3回
最高成績準優勝 2回
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立教大学野球部(りっきょうだいがくやきゅうぶ、: RIKKIO Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。立教大学の学生によって構成されている。
創部

1909年(明治42年)[注釈 1]

歴史
草創期、築地時代

1920年頃の野球部

1926年度の野球部
1916年(大正5年)頃の野球部[3](写真中央にライフスナイダー総理)

1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には野球チーム(組)があり、立教大学は日本の野球の率先者であった。その頃、ベースボールのチームがあったのは立教と青山学院(1883年に野球部創設、当時は東京英和学校)と鉄道局新橋アスレチック倶楽部)だけであり、東京六大学野球連盟に所属するチームの中で最も古い歴史を持つ。立教大学校卒業生の岩佐琢蔵(立教大学教授)によると、野球の試合は新橋停車場内の広場で行われ、対抗戦では優勝の栄冠に輝いた。後の立教大学教授でチャプレンも務めた山縣雄杜三も優勝チームの選手の一員として活躍したことを伝えている[1]

その後、野球を日本に紹介するに預って、力のあった立教大学校の野球チームであるが、選手は山縣のほかに、津田、金井、杉浦貞二郎(後の立教大学学長)、小林、河本といった顔ぶれがあり、東京一致英和学校(現・明治学院)と対抗戦を行ったといわれる[4]

1890年(明治23年)10月に立教大学校が立教学校(第2次)へ改組されるが、1892年-93年(明治25年-26年)頃から野球が行われ、攻玉社錦城学校慶應義塾などとも対戦していた[5]。この草創期の野球チームで木村重治(後の学長)も投手として活躍し、日比谷原頭で明治学院などと試合を行った[6]

その後、日本の野球は旧制中学校野球が中心となる時代となり、1898年-99年(明治31年-32年)頃には、第一高等学校(一高)が学生野球の覇権を握る時代となった。立教においても、1896年(明治29年)4月に立教学校(第2次)を廃して、立教専修学校(3年制)と立教尋常中学校(5年制)が設置されると、その後、旧制立教中学校に入学した浅沼誉夫(後の早稲田大学野球部第9代主将、東京六大学野球初代首位打者)が中学校に野球部を創設する[7]。当時はリーグ戦がなく、旧制立教中学のチームも他のチームに試合を申し込んだり、逆に申し込まれたりする中で試合を行った。旧制立教中学の草分け時代の中心選手に、滝本豊之輔(1902年・明治35年立教中卒)がおり、試合となれば厳父以下一家総出で応援したという[8]

1903年(明治36年)には運動場が狭いとの理由で野球部は一時廃止されたが、有志らは「築地野球?楽部」と称して月島や越中島などで練習を続けた[5]

1907年(明治40年)には築地に立教大学(旧制専門学校)が設立され、旧制立教中学で野球部に入っていた岡野正司(再興後の野球部第1回OB、1912年・明治45年商科卒、元校友会長)が、1908年(明治41年)に立教大学の2期生として入学し、好きな同志が集まって野球部を再興した。吉田久吉(1913年・大正2年卒)もその一人だった。当時、設立されたばかりの立教大学には5、60人の学生しかおらず、岡野が所属した商科はたった7名で、野球をする人数を集めるのが一苦労だった。当時青年教授で聖公会の司祭でもあったハーバート・ロイド(立教学院元総理のアーサー・ロイドとは無関係)が、出来立ての大学野球部のコーチを務めたが、ロイドはヴァージニア大学時代に投手で、遊撃手でもあったことから、主として技術的な指導を行った。ロイドは、在京外国人チームにも所属し、シカゴ大学出身のブレースとともに猛打者としても活躍していた[注釈 2][9][8]。当時は築地の校庭が、唯一の練習場になっていたが、あまりにも狭く校舎もあり、バッティング練習が十分できないことから、ロイドはバッティングケージを考案して、自費で造った。また、ロイドのおかげで、他校よりもインサイド・ワークのベースボールが進化し、外野からワンバウンドでバックホームする方法や、投手が一塁走者の前を横切って一塁手をバックアップする方法は立教の秘技だったという。その頃、立教とよく試合をしたのは、青山学院、明治学院であったが、あまり戦績はよくなかったという。ロイドは、このように立教大学野球部が再興される以前から旧制立教中学での野球を主導し、ロイドの下で旧制立教中学は活発な活動を始めており、前述の浅沼誉夫や森田潔(後の明治大学野球部員)らもロイドの指導を受けた教え子であった。また、ロイドの指導を受けた旧制立教中学卒業生の南条英敏、山下衝がやがて立教大学野球部の中心選手となった[9]

1909年(明治42年)に野球部が大学当局から公認された後も、部員集めには苦労し、旧制立教中学の選手を借りることもあったという[2]
築地から池袋へ

1910年(明治43年)に大学移転用地として池袋の土地(1万7千坪)が購入されると、築地の狭いグラウンドに飽き飽きしていた野球部員たちは、早速野球道具一式を手にして出掛けた。野球部員は石材屋でローラーを作ってもらって地ならしを行い、練習場にした。しかし、翌日練習場にいくとローラーが地面にめり込み引き出すのに苦労したという[9][10]。当時、商科の齋藤が一塁、岡野正司(元校友会長)が二塁を務め、藤井隆太郎(後の萬朝報記者、立教大学新聞学会顧問、校友会幹事[11])は当初ピッチャーだったが成績が振るわず、センターを務めた。各ポジションの役割も出来て、後に池袋第五小学校になったあたりの百姓家を借りて盛んに練習を行った。その頃の池袋といったら、とても淋しい場所で、豊島師範学校以外は何もなく、大学グラウンド付近には気の利いた大家というものもなく、道さえもなかった。後に運動場となった近くに地ならしをしてもらって、第一に他流試合をしたのが東京電燈だった。これは商科出身の鈴木が入社していたことから、鈴木を通じて申し込んだものだった。試合は先ずは立教軍が勝ち、鼻高々と帰りの道中天ぷら屋の「天國」(1885年/明治18年創業)で天丼を平らげ、築地に凱旋した[10][12]

1918年(大正7年)に立教大学が池袋に移転したことにより専用グラウンドも整備され、早稲田野球部監督だった飛田穂洲の指導を受けながらチーム力を上げ、1921年(大正10年)4月に東京六大学野球連盟の前身である四大学野球連盟(当時)に加入した[13]


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