立教大学経済学部(りっきょうだいがくけいざいがくぶ)は、立教大学が設置する経済学部。立教大学大学院経済学研究科(りっきょうだいがくだいがくいんけいざいがくけんきゅうか)は、経済学を研究する立教大学の大学院経済学研究科。
概要立教大学商科第1回卒業記念写真(1911年)
立教大学経済学部は、経済学科、経済政策学科、会計ファイナンス学科の3学科からなる。1883年に教育令によって日本の大学の先駆けとして設立されたアメリカ合衆国式カレッジの立教大学校では、ヨーロッパ中世以来のリベラル・アーツの伝統を引き継ぐアーツ・サイエンス教育が行われ、自然科学、人文科学とともに、社会科学科目として経済学や会計学が講じられた[1]。経済学の教科書には英国の経済学者のソロルド・ロジャース(英語版)の経済書、論理学にはウィリアム・ジェヴォンズ(漢名:日奔斯)の書籍などが用いられ[2]、会計学は大学本館(1号館)の別称・モリス館の名で知られるアーサー・ラザフォード・モリスが教えた[1]。当時、ロジャースの経済書の邦訳書がそれぞれ高橋達郎、小山雄、小笠原利孝らによって、ジェヴォンズの『貨幣論』の邦訳書が大島貞益によって文部省を始めとする諸官庁から主に出版されるなどしていたが[3]、立教大学校では原書で講じられ、英語教育も兼ねられていた[2]。
1907年の専門学校令を受けて立教大学として発足した時に現在の経済学部と経営学部の直接的なルーツとなる商科が設立され[4]、文科として設置された文学部と共に学部教育としては立教大学最古の歴史を持っている[5]。
1922年、大学令を受けて大学になった際に商学部が設置され、1924年には商学部経済学科が設置された。当時の商学部は商学科と経済学科の2学科から構成され、英語教育にも特色があった。商学部長を務めた久保田富次郎によると、英語は予科の2年間でかなり鍛えられるが、商学部に進んでからも本科の3年間を通じて毎週少なくとも8時間の授業があったという。この8時間は教科の種類によりだいたい2時間づつの4科目で構成された。第1の科目は普通英文解釈で、教科書は論文戯曲等の文学書が用いられた。第2は主に外国人との対話(英会話)の授業だった。第3は、普通英語及び商業英語の英作文で、第4は英語経済学であった。文学部の英語科とは独立して運営され、経済学説の研究も含まれていた。こうした学部教育以外にも英語会(ESS)の組織があり、教壇の教えで足りない所が補われていた。英語会は根岸由太郎の指導の元、会話・演説の演習に務めており、外国人教師も協力する体制が組まれていた。英語の講座は、根岸のほかに、井出義行(第10代東京外事専門学校校長、東京外国語大学学長事務取扱)、峰尾都治(後の旧制東京高等学校校長)、武藤安雄が担任し、商業英語は、小野秀太郎(英文通信の権威、朝日新聞外報部元記者、東京英語専修学校/現・立教大学卒[6][7][8])、隅本の2氏が教授した。その他、外国人教師として米国人のマケックニ、フート、コードウェル、英国人のハロルド・スパックマン、エドワード・ガントレットが教えた[9]。
1931年に商学部は経済学部と改称された。当時は法学部が設置されてなかったため、商学部と以後の経済学部に法学の教授陣が所属し、昭和初期には元学長の木村重治、須藤吉之祐、元総長の三辺金蔵(慶應義塾大学名誉教授)、元理事長の河西太一郎(立教大学名誉教授)、立教英国学院創設者の縣康、伊藤重治郎(早稲田大学元教授)らを始めとする経済・商業の教授陣とともに、中村進午(一橋大学名誉教授)や、中野登美雄(早稲田大学第5代総長)、星野辰雄(渋沢栄一の子)など、法学部にも伍する法学教授陣を擁して、経済学・商学と法学が同学部で講じられた。