立太子の礼
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.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}立太子の礼(りったいしのれい)
Ceremony for Proclamation of Crown Prince

立太子宣明の儀に臨む
皇太子徳仁親王(当時、現在の今上天皇)
1991年平成3年〉2月23日 撮影)
種類国事行為
(皇太子が自らの立太子を宣言する儀式)

立太子宣明の儀

朝見の儀

宮中饗宴の儀

頻度立太子ごと
会場皇居宮殿
会場所在地東京都千代田区千代田1-1
開催国 日本
前回皇太子徳仁親王
次回立皇嗣の礼
皇嗣秋篠宮文仁親王
参加者

天皇

皇族

三権の長

国内招待者

主催日本国政府
ウェブサイト
www.kunaicho.go.jp

立太子の礼(りったいしのれい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:立太子ノ禮)または立太子礼(りったいしれい)は、天皇日本皇太子であることを内外に宣明する国事行為たる一連の儀式で、皇室儀礼の一つ。

なお、2019年令和元年)5月1日皇嗣となった秋篠宮文仁親王は、これに相当する儀式として「立皇嗣の礼」(りっこうしのれい)を2020年(令和2年)に挙行した。
概要

少なくとも奈良時代には、天皇(みことのり)によって皇太子が指名されていた。平安時代前期の『貞観儀式』にて「立皇太子儀」(りっこうたいしぎ)として定められ、確立された。10世紀醍醐天皇からは、壷切御剣(つぼきりのぎょけん/みつるぎ)が皇太子の証として伝承されるようになった。かつては天皇が複数の候補者の中から、自身の次期後継者となる皇太子を決定していたため、「立太子の礼」を挙行して皇太子を正式に決定すること(立太子)は極めて重要な意義を有していた。

しかし、南北朝時代崇光天皇北朝)から江戸時代後西天皇までの300年余り途絶え、復興されたものの、すでに立太子に先立って儲君治定(後継者指名)が行われるため、立太子の礼の後継者指名としての意味合いは低下していた。さらに明治時代以降は、皇室典範旧法、改正後現法)制定により、同法で規定された皇位継承順位に従って皇太子が決定されるため、立太子の礼は完全に儀礼的な行事となった。

明治以降の近代・現代において、立太子の礼が行われたのは、以下の4例である。

嘉仁親王(大正天皇):明治22年(1889年11月3日(満10歳)

裕仁親王(昭和天皇):大正5年(1916年)11月3日(満15歳)

明仁親王上皇):昭和27年(1952年11月10日[1](満18歳)

徳仁親王(今上天皇):平成3年(1991年2月23日[2](満31歳)

明治42年(1909年2月11日に、立太子にまつわる詳細を定めた「立儲令」が施行された[3]が、昭和22年(1947年5月2日付けで廃止された[4]

「立太子」および「立太子の礼」については、皇室典範にも規定は無い。そのため、政教分離を定めた日本国憲法下では、その都度に天皇の国事行為(=国の儀式)として行われることが閣議決定され、また国事行為として行われる儀式と宮中三殿への拝礼が分離されるよう配慮している。

なお、立太子礼は日本では宮中三殿で行われるが、中国では立太子の儀式の際は紫禁城太和殿で行われていた。
直近3代の「立太子の礼」
裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子の礼

大正5年(1916年11月3日、大正天皇即位礼(前年11月)以来最初となる「明治節」(明治期の天長節、明治天皇の誕生日)の日に行われた。
11月1日
勅使発遣の儀(宮殿:鳳凰ノ間)伊勢神宮へは掌典河鰭公篤[5]神武天皇陵及び明治天皇陵へは掌典久我通保[6]をそれぞれ派遣。両者は5日帰京。
11月3日
賢所皇霊殿神殿に奉告の儀(宮中三殿)大正天皇が立太子礼を行うことを神前に奉告(代拝:侍従清水谷実英)。
賢所大前の儀(宮中三殿:賢所)9時、大正天皇が賢所内陣の御座に出御、拝礼、告文、外陣の御座に移動。9時25分、皇太子裕仁親王が外陣に参入、内陣に拝礼、天皇に一拝。天皇より壺切御剣を拝受された。同時に立太子の詔書渙発、陸軍礼砲。9時35分、天皇入御、皇太子退出。詔書朕󠄂祖宗ノ遺󠄁範ニ遵󠄁ヒ裕仁親王ノ爲ニ立太子ノ禮ヲ行ヒ?ニ之ヲ宣布ス

御 名  御 璽

     大正五年十一月三日

          宮  ?   大  臣    男爵󠄂波多野敬直
          ?閣總理大臣    伯爵󠄂寺 ? 正 毅
賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(宮中三殿)10時20分より、三殿に拝礼。侍従土屋正直が壺切御剣捧持。
参内朝見の儀(宮中正殿)両親の大正天皇貞明皇后に拝謝。
明仁親王(後の第125代天皇、上皇)の立太子の礼1952年(昭和27年)11月10日、明仁親王の立太子礼「立太子禮記念」24円切手

昭和27年(1952年11月10日継宮明仁親王成年式と同時に行われた[1]。同年4月28日日本国との平和条約発効による主権回復(GHQ/SCAP被占領統治終了)後最初の国事であり、国民的な盛り上がりを見せた。

当日、立太子の礼に向かう親王の東宮仮御所から皇居までの移動は、馬車でのパレードが行われ、沿道には多数の市民が詰めかけた。
11月10日
親告の儀昭和天皇香淳皇后が立太子の礼を行うことを神前に報告。なお、これ以前は側近による代拝だった。
成年式 / 加冠の儀(仮宮殿:表北の間)皇族に加え、吉田茂首相第4次吉田内閣)を始め三権の長、都道府県知事(代理含む)、各国大使ら300名が出席。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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