立売堀
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立売堀
町丁
立売堀川跡の碑。花王の大阪事業場の脇にある。
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日本
都道府県 大阪府
市町村 大阪市
西区
面積[1]
 ? 合計0.348635893 km2
人口(2019年(平成31年)3月31日現在)[2]
 ? 合計7,563人
 ? 密度22,000人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号550-0012[3]
市外局番06(大阪MA[4]
ナンバープレートなにわ

立売堀(いたちぼり)は、大阪府大阪市西区町名。現行行政地名は立売堀一丁目から立売堀六丁目。
地理

大阪市西区東部に位置する。北で阿波座、東で北久宝寺町南久宝寺町、南で新町、西で本田および西の橋梁上の一点で川口、北西で江之子島西本町と隣接する。阪神高速1号環状線信濃橋出入口付近から淀川の支流の木津川にある大渉橋付近までに当たる。

三丁目は阿波座地区西部、四丁目・五丁目・六丁目東部は薩摩堀地区、六丁目西部は江之子島地区南部を含んでいる。
歴史

江戸時代から地域の南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていたが、昭和中期に埋め立てられた。江戸時代から材木の集散地として栄え、大正以降は金属や機械などの問屋街が形成されている。また、最近まで立ち売り(客に見えやすいように材木を立てかけ販売する)を行う材木業を営む店もいくつか残っていたが、マンション建設、再開発などによりその数を減らし、当時の名残はほとんど見られなくなっている。
地名の由来

地名には諸説あり、どれが正解かは不明であるが、代表的なものは以下のとおり。

『摂津名所図会大成』によると、大坂冬の陣・夏の陣伊達氏がこの付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、その跡を掘り足して川としたことから初めは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。後に材木の立売りが許されるようになったので漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである[5][注 1]

元和(1615年?1624年)の頃、土佐藩が幕府の許可を得て材木市場を開設、材木の立ち売り(客に見えやすいように材木を立てかけ販売する)を行ったことを由来とする説もある。
町名の変遷

江戸時代の町名は三右衛門町(さんえもんちょう)・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町(なやまち)・百間町(ひゃっけんまち)・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた。

1872年明治5年)に阿波座三番町・阿波座四番町・薩摩堀北之町・薩摩堀東之町・薩摩堀南之町・薩摩堀裏町(もと納屋町)・薩摩堀西之町(もと百間町)・立売堀裏町(もと吉田町・西国町)・立売堀北通一から六丁目・立売堀南通一から六丁目となった。1924年(大正15年)に薩摩堀裏町が島津町に、立売堀裏町が立売堀北通七丁目に変更。1960年(昭和35年)に阿波座三番町の西半・阿波座四番町・薩摩堀の五町が立売堀上通一から三丁目となり、立売堀北通・立売堀南通も再編の上どちらも一から六丁目となった。1978年(昭和53年)に立売堀上通・立売堀北通・立売堀南通および江之子島東之町・江之子島西之町の各中央大通以南を統合して住居表示を実施。
世帯数と人口

2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口


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