立原正秋
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文藝春秋社『別冊文藝春秋』第96号(1965)より
誕生金 胤奎(キム・ユンキュ)
1926年1月6日
日本統治下朝鮮慶尚北道安東郡
死没 (1980-08-12) 1980年8月12日(54歳没)
日本東京都中央区築地
墓地瑞泉寺鎌倉市二階堂
職業小説家随筆家編集者
言語 日本
国籍 韓国
最終学歴早稲田大学専門部国文科中退
代表作『白い罌粟』(1965年)
冬の旅』(1969年)
『残りの雪』(1974年)
『冬のかたみに』(1975年)
主な受賞歴近代文学賞(1961年)
直木三十五賞(1966年)
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立原 正秋(たちはら まさあき、金胤奎、キム・ユンキュ、???、1926年1月6日 - 1980年8月12日)は、朝鮮半島出身の日本小説家随筆家詩人編集者
人物

1926年(大正15年)1月6日朝鮮慶尚北道安東郡で生れた[1]。自著などでは大邱市生れとされていたが[2]武田勝彦高井有一の調査によると、安東郡である[1]早稲田大学専門部国文科中退(入学時は法律学科)。

小林秀雄を導き手として世阿弥の芸術論や謡曲をはじめとする中世日本文学に深く沈潜し、「中世」をみずからの創作活動の原点とした。

父の死後、母が再婚して渡日したため、叔父(母の弟)の家などに引き取られて育ち、その後、1937年(昭和12年)の11歳のときに内地(日本)に渡り、母たちと同居し横須賀で育った[1]

戦後は、丹羽文雄主催の『文学者』に参加し、小説を書き始め、「薪能」(1964年)、「剣ヶ崎」(1965年)が芥川賞、「漆の花」(1965年)が直木賞候補となり、みずからを「純文学大衆文学の両刀使い」と称して流行作家となる。

1966年(昭和41年)、「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。大人の愛を描いた小説で人気を集めた。

編集者としても、同人文芸誌『犀』刊行の中軸を担い、また、第7次『早稲田文学』の編集長を務めるなどし、吉田知子古井由吉ら多くの作家、評論家を世に送った。

食道癌で亡くなる2か月前に、ペンネームだった「立原正秋」への正式な改名が認められ、本名になった[1]

代表作に『冬の旅』『残りの雪』『冬のかたみに』など。『秘すれば花』『日本の庭』など、随筆も多い。角川書店より全集が1980年代と1990年代に2度刊行された。小学館より『立原正秋 電子全集』全26巻が配信中(2015年12月 - )[3]美食家としても有名だった。
経歴
幼少時代

1926年(大正15年)1月、朝鮮慶尚北道安東郡西後面耳開洞の農村に生まれ、胤奎(ユンギュ)と名付けられた[1]。父母の名は金敬文(キム キョンムン)、権音伝(クォン ウムジョン)[1]

立原の著書や自筆年譜によると、父親の名は金井慶文で、父は姻戚の家をたらい回しにされて育ち、金井家の養子となった人物だとされ、最後は臨済宗の天燈山鳳停寺の禅僧となって宗務長を務めたとされる[2]。立原の著書によれば、立原はこの寺で生まれ育ち、幼少の頃から漢文の素読を受け修行僧らと暮らし、父は朝鮮仏教史と『碧厳録』を教えていたという[2]。自筆の年譜によると、「父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族より出て金井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった」とあるが、実際には「日韓混血」ではなく、2人とも朝鮮人だったことが武田勝彦高井有一の調査で明らかになっている[1]

1931年(昭和6年)、5歳のときに父親が死亡[1]。9歳のときに母が弟を連れて再婚した[2]

1935年(昭和10年)、母と弟と異父妹が内地(日本)の横須賀に移り住んだため、慶尚北道亀尾町の医師で母の実弟の権泰晟(永野哲秀)のもとへ預けられた。

1937年(昭和12年)、母の再婚相手の王命允(野村辰三)の野村家に移り野村震太郎と名乗り、衣笠尋常高等小學校尋常科(5年)に転入[1]

1939年(昭和14年)、横須賀市立商業學校(当時は私立)に進み、文学や仏典に親しむようになる。

1940年(昭和15年)、創氏改名により、金井 正秋となる[1]

1942年(昭和17年)、後に妻となる日本人女性:米本光代と知り合う。
小説家時代

1945年(昭和20年)、早稲田大学法律学科に入学するが、勤労動員に追われる。翌年に小説家を志し、国文科の聴講生となる。大学の創作研究会懸賞小説に応募し、「麦秋」で入選するが、原稿は行方不明になってしまい、発刊もされなかったので、幻の処女作となった。

1947年(昭和22年)より米本光代と結婚したことを受け、日本へ帰化


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