凡例窪田清音
伝窪田清音肖像
時代江戸時代後期
生誕寛政3年2月28日(1791年4月1日)
死没慶応2年12月25日(1867年1月30日)
改名勝栄、清音
別名助太郎、源太夫(通称)、修業堂(号)
墓所東京都港区青山の玉窓寺
幕府江戸幕府 旗本
主君徳川家斉→徳川家慶→徳川家定
氏族清和源氏井上氏流幕臣窪田氏
父母父:窪田勝英
窪田 清音(くぼた すがね)は、江戸時代後期の旗本・兵学者・武術家。徳川幕府が設置した講武所の頭取・兵学師範役を務めた。 初名は勝榮(かつなが)。通称は助太郎、源太夫。号は修業堂 兵学・武術の達人で知られた父・窪田勝英から中島流
略歴
武術では、田宮流剣術・居合・関口流柔術、宝蔵院流槍術、無辺夢極流槍術、小笠原流弓術、日置流弓術、大坪流上田派馬術、外記流砲術、能島流水軍を習得、皆伝した。
兵法と武術のみならず、伊勢流武家故実、国学、和歌、書を学び、師範免許を得ている[1]。
文化10年(1813年)23歳で芸術出精を賞せられて大御番士、弓矢鑓奉行、御広敷番頭を歴任する。
天保12年(1841年)、得意の田宮流居合を将軍・徳川家慶に上覧したことをきっかけに、窪田派田宮流の名が広まり、全国から門人が集まった。
天保13年(1842年)、御納戸頭の職位にある時に天保の改革原案作成をめぐり羽倉簡堂と論争を起こし、水野忠邦によって御役御免となった。寄合席に編入された清音は、門人育成と古伝の著述に力を注ぎ、「山鹿伝采幣伝授」「剣法略記」「形状記」を始め兵書50部、剣法38部、水軍2部、砲書3部、雑書11部、武家故実類書13部など生涯で130部を著し、兵法、武家故実の研究家、武術家として大きな業績を挙げた[2][3][1]。
講武所頭取
安政2年(1855年)、男谷信友が長年建議していた講武所を幕府が新設すると、清音は山鹿素水と関係が深い九鬼隆都の推奨もあり、兵法、武術、古伝研究の第一人者として幕府講武所頭取兼兵学師範役に就任した[4][5]。幕末の情勢で近代兵器が台頭する状況で、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義を続けたことで好悪様々な反応を呼び起こしたが、石岡久夫の研究によると、講義では士道の軸となるべく山鹿流の武士道徳を強調した反面、清音が著した五十部の兵書のうち、晩年の「練兵新書」、「練兵布策」、「教戦略記」などは、練兵主義を加えることで、山鹿流を激変する幕末の情勢に対応させようとしていたという[6]。
万延元年(1860年)には、清音の序を載せた講武所版「武教全書」五巻が版行されている[7][1]。
兵学・武術流派の師・門人窪田清音墓(玉窓寺)
兵学門人は諸侯、旗本以下3000人余、剣術門人は600人余とされ、幕末・明治に活躍した多くの人物の教養・武道系譜に影響を与えている。 山鹿流兵法学者として甲州流、越後流、長沼流を兼修した清音の著名な兵学門人には、若山勿堂、林梁、駒井朝温、小栗忠順、宍戸弥四郎、依田伴蔵
山鹿流中興の祖
若山勿堂を通じた孫弟子に勝海舟、板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城、清岡道之助[8][9][10]、文献によっては坂本龍馬、中岡慎太郎も若山勿堂から山鹿流を習得したとの記述もある[11]。
清音の山鹿流兵学師範は、兵学者として知られた外祖父の旗本・黒野義方である[12]。