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やノートページでの議論にご協力ください。窪山 哲雄(くぼやま てつお、1948年3月17日 - )は、日本の実業家。ホテル経営者。PGHエンタープライズ[1]代表取締役社長。潟U・パークグレイス・ホテルズ代表取締役社長[2]。国際観光ホスピタリティ総研[3]代表取締役会長。京都大学博士(経営科学)。 国内外のホテル運営及び経営に40年以上携わる。特に,「ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ」が2008年開催の北海道洞爺湖サミットの主会場の指定を受けたことで注目を受けた[4]。同ホテルは1997年、エイペックス社からホテルエイペックス洞爺の運営を委託された際に窪山が創立したホテル運営会社「潟U・ウィンザー・ホテルズ インターナショナル」が運営していた。尚,1998年のエイペックス社の破綻後は、警備保障会社セコムの支援を受け、ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパとして経営を再開を開始した経緯がある。窪山は同ホテルをフランスの三つ星レストランと提携するなどして再建に努めた。2012年に同社社長を退任して後は,京都大学経営管理大学院に在籍し,サービス実践と科学を融合させた新しいサービス・マーケティング・マネジメントを研究。その手法のホテルサービスの現場への実装を支援している。 窪山は、2017年1月の日本経済新聞の記事で「接客など現場対応を偏重しがちで欧米に比べマネジメント力が弱く、生産性が低い」と指摘しており、同時に「私が米国の大学を卒業後に勤めたニューヨークの最高級ホテル『ウォルドルフ・アストリア』では従業員のほとんどが経営に関する数字を把握していた。単にコストを削るのではなく、『このくらいの宿泊費を出してもいい』と顧客を満足させる品質を維持するための投資はしっかりやるという姿勢が徹底していた」と自身の経験を振り返った。さらに「日本の場合、現状では訪日客数が増え営業成績が上がってもコモディティ化から抜け出せず、過当競争に陥りかねない。回避するには戦略的な営業・マーケティング、人事管理、キャッシュフローの最大化、顧客の拡大と管理、さらに魅力的な商品作りやおもてなしの哲学が不可欠だ。顧客は日々様々な体験を重ね成長していく。ニーズを先読みし、新しい価値を提案する力なくして持続的で健全な経営は難しい。マーケットを創造する挑戦も必要だ。バブル経済破綻の象徴とされた北海道のホテルを『ザ・ウィンザーホテル洞爺』として再生させた時がそうだった。富裕層向けを明確に打ち出すホテルがまだ存在しないなか、付加価値を高める戦略を徹底し、08年の主要国首脳会議(サミット)誘致にこぎつけた」と事実を元に主張を展開。最後に「おもてなしは日本のお家芸と言われる。その経営価値を最大限に高め、成長戦略の一つである観光立国を果たすためにも、欧米に劣らぬプロのホテルマンが求められる。遠からず到来するだろうAI(人工知能)時代を見据えてホテルが果たすべき役割を考えることも大切だ。人的サービスの多くがAIに置き換わった社会では、人が人をもてなすホテルは「触れ合い」を提供する、文化的で知的なアナログ空間となる。効率の徹底追求でストレスを抱え込んだ人々の心身を癒やす場として価値は高まるはずだ。そうした空間の実現には、ホテル経営に精通するだけでなく、科学や行動心理学など様々な視点が必要だ。大学院レベルでオールラウンドなリーダーを育てねばならない」と締めた[5][6]。
概要
主義・主張
略歴
1948年(昭和23年)3月17日 - 福岡県生まれ。
1971年(昭和46年)3月 - 慶應義塾大学法学部卒業。
1972年(昭和47年) - 帝国ホテル(トレーニー)入社。
1973年(昭和48年)1月 - コーネル大学ホテル経営学部入学。
1975年(昭和50年)
5月 - コーネル大学卒業。
6月 - 米国ヒルトン・ホテルズ・コーポレーション
7月 - ニューヨークのホテルウォルドルフ・アストリア
1976年(昭和51年)
10月 - 昭和天皇訪米時担当 総支配人補佐。
12月 - ウォルドルフアストリア インターナルオーディター。
1978年(昭和53年)11月 - 株式会社ホテルニューオータニ東京本社に入社し、レストラン「ラ・トゥール・ダルジャン (La Tour D'argent) 」(1984年開業)等のコーポレートマーケティングを担当。
1980年(昭和55年)12月 - カイマナビーチホテル(KAIMANA Beach Hotel ハワイ)副総支配人。
1981年(昭和56年)6月 - ロサンゼルス副総支配人。
1983年(昭和58年) - 東京本社コーポレートマーケティング統括支配人。
1985年(昭和60年) - 副社長補佐、コーポレートマーケティングを担当。
1987年(昭和62年) - 大阪営業部戦略担当支配人。
1989年(平成元年)10月 - 東京ベイヒルトン(現ヒルトン東京ベイ)副総支配人に就任[8]。