突撃隊最高指導部
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1938?1945年までの突撃隊最高指導部の車両旗突撃隊最高指導部のカフタイトル

突撃隊最高指導部(:Oberste SA-Fuhrung, OSAF)は、国家社会主義ドイツ労働者党準軍事組織突撃隊(SA)の最高機関である。

SA最高指導部の役割は、SAの組織統括を担っていた。また、OSAFの名称は突撃隊の最高指導者の称号としても機能していた。
概要

突撃隊最高指導部は、1926年11月1日に発足し、突撃隊(SA)の最高司令部として設立された。1930年8月末まで、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンがSA最高指導者に任命され、党の議長としてアドルフ・ヒトラーの補佐も兼任していた。ザロモンの幕僚には、ゲオルク・ハラーマンが着任し、後にヴィルヘルム・シュミット(ドイツ語版)が後任となった。

1930年8月、突撃隊員の選挙出馬を巡る問題でヒトラーと揉めたザロモンが辞任した後、突撃隊の抜本的な組織再編が行われ、ヒトラー自らSA最高指導者に就任し突撃隊の指揮を執った。しかし、1930年の終わり頃からSA最高指導部の役割は、新設の突撃隊幕僚部(SA-Stabschef)へ移行しつつあった。

1930年9月から1931年1月30日までオットー・ヴェーゲナー(ドイツ語版)が暫定的に幕僚長となった後、1931年1月から1934年6月30日までエルンスト・レームが幕僚長に就任した。その後、ヴィクトール・ルッツェが1934年6月30日から1943年5月まで就任し、最後にはヴィルヘルム・シェップマンが1943年から1945年まで務め、マックス・ユットナー(ドイツ語版)が1943年5月から8月初旬まで代理を務めた。

当時、SA幕僚長とSA最高指導者は同一の役職であると誤解されており、そのため、SA上級集団指導者のエドムント・ハイネスは、1934年6月の時点で、レームではなくヒトラーがSA最高指導者であることをエヴァルト・フォン・クライスト将軍に説明しなければならなかった。

SA最高指導部の本部はミュンヘンにあり、バラー通り(Barerstrasse)7-11番に立地していた。SA幕僚部は、1931年頃から褐色館に事務所を構えていた。

1934年7月、SA最高指導部はミュンヘンからベルリンへ移された。

(SA歴代指導者一覧)

1925年2月?5月1日 ― エルンスト・レーム(OSAF設立以前のSA最高指導者)

1926年1月?11月 ― アルベルト・ドレスラー(ドイツ語版)(代行)

1926年11月1日?1930年8月 ― フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン

1930年9月?1945年4月 ― アドルフ・ヒトラー

組織1931年のOSAF組織図

1931年12月時点でのOSAFの組織は以下の構造となっていた。

幕僚長:エルンスト・レーム

主任補佐官:ロルフ・ライナー(ドイツ語版)

第T部:フランツ・フォン・ヘラウフ(ドイツ語版)(第Ia・M課の監督)

第Ia課:オットー・クヴィリン・ランツェレ(ドイツ語版)

第Ib課:ハンス・ツェーバーライン(ドイツ語版)

第K課:アドルフ・ヒューンライン

第FL課:ヴィルヘルム・ツィーグラー

第L課:ヨーゼフ・ザイデル(ドイツ語版)(第Pr課の監督)

第M課:クルト・キューメ(ドイツ語版)
(担当:凱旋活動の管理、兵力統計、訓練、地図、切手、通信、自動車、航空、防空、服務規定、楽隊、スポーツ、徽章)
附属:全国楽隊部監督

第Ic課(諜報):カール・レオン・デュ・ムーラン=エッカート(ドイツ語版)(幕僚長直属)、後任者:ヘルベルト・リスター

第IIa課(人事):ヴィルヘルム・シュミット(ドイツ語版)(幕僚長直属)

第IVa課(出納、予算):カール・シュライヤー(ドイツ語版)(幕僚長直属)

第Pr課(OSAF報道局):ヨーゼフ・サイデル(第L課の監督、幕僚長直属)


第Qu部:ヨハン・バプテスト・フックス(ドイツ語版)(第III、IVb、F課監督)

第III課:ルートヴィヒ・フィッシャー

第IVb課:ラング

第F課:ヴィルヘルム・ブリュックナー

(担当部門:広報、政治指導、法律問題、SA宿舎、自衛、街頭闘争負傷者・収監者救対部、機械管理、輸送、条例指導)

第ST部(幕僚部宿舎):ロルフ・ライナー(ドイツ語版)

幕僚部直属

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー

全国青年指導者:バルドゥール・フォン・シーラッハ

全国指導者学校(ドイツ語版)校長:クルト・キューメ(ドイツ語版)

全国自動車軍団指導者(SAおよびSS自動車化部隊の検査兼任):アドルフ・ヒューンライン

監察官:クルト・フォン・ウルリヒ(ドイツ語版)全国医師長:パウル・ホッハイゼン(ドイツ語版)

幕僚部所属

SAホッホラント管区集団指導者:フリッツ・フォン・クラウサー(ドイツ語版)(指導部附属)

大管区突撃指導部『ミュンヘン=オーバーバイエルン』:フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン

ヒトラーユーゲント指導部:テオドール・アドリアン・フォン・レンテルン(ドイツ語版)

国家社会主義学生同盟(ドイツ語版)指導部: 〃 

SS上級地区『南』指導部:ヨーゼフ・ディートリヒ

副官部

催事監督部

報道部


その他OSAF附属部署

教育本部

司法および法務局

官房局

人事局

SA政治局

出版局:ヴィルヘルム・ヴァイス(ドイツ語版)

経理局

『アドルフ・ヒトラー寄金』課



突撃隊最高指導者代行

1933年まで、いくつかの地方SA最高指導者は突撃隊最高指導者代行(OSAF-Stellvertreter)の称号を保持していた。

OSAF-中央(本部:ドレスデン

マンフレート・フォン・キリンガー(ドイツ語版) ― 1928?1933年


OSAF-北(本部:ハノーファー

カール・ディンクラーゲ(ドイツ語版) ― 1930年

ヴィクトール・ルッツェ ― 1930?1933年


OSAF-東(本部:ベルリン

ヴァルター・シュテンネス ― 1927?1931年


OSAF-南(本部:ミュンヘン

 アウグスト・シュナイトフーバー ― 1929?1932年


OSAF-西(本部:カッセル/デュッセルドルフ

クルト・フォン・ウルリヒ(ドイツ語版)

ヴェルナー・フォン・フィフテ(ドイツ語版)

アウグスト・シュナイトフーバー ― 1932?1933年


SA最高指導者会議沿革

1924年5月17日:
ザルツブルクでのSA指導者会議(褐色シャツ型制服の導入が本会議において可決)

1930年11月30日:ミュンヘンでのSA指導者会議(エルンスト・レームのSA幕僚長就任の指名が本会議において可決)

1932年6月27日:ベルヒテスガーデンでのSA指導者会議

1932年12月:アンスバッハでのSA指導者会議

1933年1月23日:ベルリンでのSA指導者会議[1]

1933年7月1日?3日:バート・ライヘンハル(ドイツ語版)でのSA指導者会議(鉄兜団との共同会議)

1934年1月21?22日:テューリンゲン、フリードリヒローダ(ドイツ語版)でのSA指導者会議

1934年5月2日:ミュンヘンでのSA指導者会議

1934年6月30日:バート・ヴィースゼー(ドイツ語版)でのSA指導者会議は実際には開催されておらず、いわゆる、レーム事件におけるレーム一派の謀議として公式に発表された。

脚注^ "S.A. und S.S.-Fuhrertagung in Berlin", in: Volkischer Beobachter vom 24. Januar 1933 (Digitalisat beim Staatsarchiv Munchen).

参考文献


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