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突撃大隊(とつげきだいたい、独: Sturmbataillon)とは「特攻隊(Stostruppen)」などをはじめとする第一次世界大戦中において、硬直化していた塹壕戦を打破する目的で考案された部隊である。第一次世界大戦において、煙幕の中突撃を敢行するドイツ帝国軍の突撃歩兵 (1917年)
突撃歩兵については、仏Andre Laffargue大尉による提言、伊Ciuseppe Bassi中佐によるアルディーティ隊の創設などがあるが、本項では主にドイツ突撃大隊を取り上げる。 ドイツ軍で公式的に突撃部隊が発足したのは、1915年3月「第18工兵大隊」長カルソー(Calsow)少佐によって編成された部隊である。この部隊は指揮官の名を取って「カルソー突撃隊(Sturmabteilung - Calsow)と呼ばれた。戦前から攻囲戦の訓練をしていたのは工兵であり、西部戦線の強力な塹壕を突破するにふさわしい新部隊、新戦術を創造する役目も工兵が中心となって行うこととなった。 塹壕を突破する歩兵にとって一番の悩みは敵の側防機関銃だった。散開隊形で突撃を行っても、その驚異的な発射速度によって歩兵たちはバタバタと射すくめられていった。この問題を解決するためクルップ社で37ミリ軽砲が開発された。 突撃隊最初の任務はフランスでの前線守備だった。新兵器の37ミリ軽砲も前線へと持って行かれた。だが部隊はフランス軍の砲撃などによって大損害を被っている。37ミリ軽砲を使用するや否や、その発射光によって容易に場所を特定され、フランス砲兵の標的とされたからである。クルップ社の37ミリ軽砲は前線では全く役に立たなかった。 第一次世界大戦中、ドイツ帝国陸軍はそれまでの戦術に変わる特に塹壕戦における攻撃のため、17個の突撃大隊と2個の独立した突撃中隊からなる「突撃大隊 (Sturmbataillon)」を編成した。 これらの特殊部隊は、主に教導・訓練部隊として使用され、通常は部隊として配備されない困難な戦闘任務をおった。戦争が激化するにつれ大隊では膠着した戦線突破のため新たに「特攻隊 (Stostruppen)」が編成されるようになる。 突撃大隊への入隊は1915年から1917年の終わりまで自発的な参加形式で行われていた。発足時の大隊への入隊基準は非常に厳しく、猟兵大隊の4個大隊が突撃大隊として訓練を施されたが訓練を受けた者の内、500人以上が不合格とされ転送される具合であった。将校は自動的に隊に配属される場合があったが、大半は25歳未満で、未婚者で身体能力の優れた者が重用されていた。なお、前線勤務についていない兵士や将校は、大隊と短期間過ごすことになっていた。 後にエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の要請により隊への合格基準が一部修正された。 訓練内容は通常の歩兵のそれとは大きく異なっていた。新しい訓練は大戦前の閉鎖的、封建的な制度とは異なり、兵士が将校に従う上意下達の体制ではなく個人の特性を抑圧せず個人の特性、自発性を最大限に発揮させ駆り立てていくものであった。訓練の大部分は肉体鍛錬に費やされ、いくつかの演習では遊戯的な運動も盛んに行われた。(サッカー、ランニング、体操はかなり人気のある活動であった)10日間に渡り、我々は手榴弾投擲の演習を行い、敵の目標を再現した防御陣に対する突撃を数回行った。戦闘が始まる前に、兵士らの過激な熱狂が再三に渡る榴散弾的暴発を呼び起こさなかったことは、誠に奇跡的なことであった。この訓練とは別に、我々は他の地区に派遣された[...]9月22日、夜、宿泊施設のある第二線に至ったとき、私は蛮族の集団の先頭に立っている自分を見出だしたが、この連中は非常によく組織化されていた。 ? エルンスト・ユンガー 鋼鉄の嵐の中で 他の兵士は、戦術、手榴弾の投げ方といった様々な技術的側面を訓練していた。他には、鉄条網などの開放、塹壕の掃討、火炎放射器部隊との連携、弾幕射撃の追従など、様々な戦闘訓練を行っていた。これらの激しい訓練は死傷者を多く出すこととなった。また、特攻隊の長時間に渡る訓練は一般の兵士達にとって自分たちの訓練時間を減らす格好の口実となっていた。 1916年、突撃大隊が戦果を発揮したヴェルダンの戦いでの活躍を受けて、猟兵大隊や山岳部隊の一部を突撃大隊へ再編する計画が提案されたが、東部戦線における部隊の消耗によりの第3猟兵大隊(ブランデブルク)のみが、8月4日から第3猟兵突撃大隊に再編された。1916年から創設された多数の大隊は、突撃大隊で訓練を積んだ将兵を多く含んでいたため、エリートとして見なされていた。また、一部の将校や下士官らは、大隊で学んだ技術を広めるため元の部隊に戻っていた。 多くの突撃大隊は当時としては珍しく自動化された部隊であったため、戦場への輸送が迅速に行われ、部隊はほとんどの時間を後方で過ごしており、その後、必要に応じて移動し現地での侵攻や攻撃を行うことができた。 1916年5月27日、カルソー少佐の部隊に属していたヴィリー・ローア大尉
概要
突撃大隊
訓練セダン近郊における突撃大隊による訓練 (1917年)
前線へガス攻撃の中突撃する部隊
特攻隊の発足「特攻隊」発起人のローア大尉『第5突撃大隊「ローア」』旗
ローア大尉のこの提案は、1916年版の歩兵操典に追加され、陸軍省と参謀本部により戦術に関する「1906年の演習規則」の一部を差し替え採用された。この規定が採用されたことは、新兵を直ちに塹壕戦に投入可能にすることを意味していた。
1918年の訓練指導規定では、全歩兵を突撃部隊の兵士として訓練するというルーデンドルフの公式見解が下され、この目標達成のために突撃大隊ですでに行われていたものと同様の訓練方法が記述された。これら新戦術の承認にもかかわらず、第2版操典では大隊内での特攻隊の戦術については言及されていない。
ローア大尉が2年間にわたって理論的に発案した特攻隊の戦術は後に公式訓練の一部となっており、ルーデンドルフ自身は突撃部隊の戦術をすべての歩兵に適用させる方針であったが、目下兵士の大半がそれにそぐわない水準であることが1918年頃から想定された。
大戦末期の部隊鉄条網を突破する特攻隊
1918年の西部戦線における最初の攻勢(Fruhjahrsoffensive, 「カイザーシュラハト」とも呼ばれ、3月21日より攻撃開始)は、この戦争でドイツ側に有利な状況をもたらすものとされた。この攻勢では多数の突撃大隊が戦闘部隊として出撃可能となっていたが、戦略的突破口という目的を達成することはできずまた、大戦末期から兵力の消耗により突撃大隊は中隊規模にまで縮小された。
兵士の大半はほとんど戦争に対する意欲も熱意もなかったので「攻撃師団 (Angriffsdivisionen)」と改名された師団から約4分の1が突撃大隊に選ばれ、25歳から35歳(もともと突撃大隊では25歳以上の男性をほとんど受け入れていなかった)までのすべての男性が含まれ、突撃部隊の方式で訓練され、最新の武器を装備していた。これらの師団が訓練を行っている間、師団の残りの4分の3は塹壕の防衛に忙しく「塹壕師団 (Stellungsdivisionen)」と呼ばれた彼らは、旧式の装備と年配の兵士で苦戦することになった。
大戦後、最後に残った突撃大隊「第5突撃大隊 ローア」は、カッセルの最高陸軍司令部確保のために投入された。
供給された火器
初期の装備Gewehr 98
1914年頃の特攻隊をはじめとする突撃歩兵の標準的な火器はGewehr 98小銃であった。これは通常戦闘においては有効であったが、その後の塹壕戦では不向きとされ、1915年から短銃身型のKarabiner 98aが「第5突撃大隊 (Sturmbataillon Rohr)」に配備された。小銃の種類が増えたことで管理上の取り扱いが複雑化したが、戦闘では正確で強力な威力を発揮し、西部戦線における部隊の標準兵器となった。
近接兵器MP18短機関銃とP08拳銃を持つ突撃歩兵 (1918年)ドラム弾倉型のMP18短機関銃ルガーP08第一次大戦後に開発された1924年式柄付き手榴弾のレプリカ
ドイツ軍から短機関銃のコンセプトを打診されたベルクマン武器製造社は短機関銃の開発を進め、テオドール・ベルグマンとルイス・シュマイザー及びオットー・ブラウスベッターが協力して短機関銃を試作し、翌1918年にはこれが制式化されてMP18と命名された。このMP18こそ、突撃歩兵の中核を担う武器であり、大戦の終結後も世界中に輸出され、ドイツ式の軍隊である国民党軍などでも使用された
この短機関銃MP18は1918年時点で約3万挺供給されており、1917年から既に特攻隊の標準装備の一つとして使用されていた。塹壕での近接戦闘や白兵戦では、32発のスネイル型マガジンを装備したルガーP08が多用された。