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6世紀、突厥の最大版図
公用語ソグド語、古テュルク語(テュルク諸語のひとつ)
首都ウテュケン山
可汗
546年 - 552年伊利可汗
553年 - 572年木汗可汗
587年 - 599年都藍可汗
面積
6000000km²
変遷
建国552年
東西分裂582年
突厥(とっけつ、中国語: 突厥; ?音: T?jue)、あるいはテュルク(古テュルク語: ????【Turuk】[1]、????【Turuk】[2]、トルコ語: Gokturk【ギョクテュルク】)は、中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。6世紀に広大な版図を支配した。
起源はジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいたテュルク系部族と考えられている[3]。柔然に隷属していた。
その後、柔然の命令に従いアルタイ山脈の南麓へ移住させられ、鍛鉄奴隷として鉄工に従事した[4]。
552年に柔然から独立を成し、部族連合である突厥可汗国(日本語読み:とっけつかかんこく。突厥帝国とも)を建て、中央ユーラシアの覇者となった。
582年に内紛により東西に分裂した(東突厥・西突厥)。 この民族自身は自分たちのことを、テュルクと呼んだ。 「テュルク」という名称の意義については「強力な(もの)」とする説[5]が有力であるが、異論もある[6]。 テュルクは漢字を用いていなかったが、テュルクについて残されている歴史書が中国語だった関係で、中国語の文献の表記「突厥」が日本においても採用されている。中国史書が表記に使う「突厥」という漢字表記については、これまで“Turk(テュルク)”にモンゴル語複数語尾である-ud(-ut)が付いた形“Turkut(テュルキュト)”の漢字音写であるとする説[7]が有力であった。しかし近年になり、突厥という語は単純に「テュルク」(Turuk)という音そのものを写した漢字であるという説が支持されるようになってきた[8][9]。 中国において通俗的な漢字の意味解釈としては、『周書』異域伝・『隋書』北狄伝では、「彼らが住んでいた金山(アルタイ山脈)の形が兜?の形に似ていたことから、彼らの言葉で“兜?”を意味する“突厥”を部族名とした。」と記されている。 突厥の起源は西丁零に遡ると考えられ、その原住地はイェニセイ川上流域にあったとされる。この地は鉄鉱石が豊富であり、のちに突厥が「鍛奴(鍛鉄奴隷)」と呼ばれるほど製鉄技術に優れていたことを裏付ける。彼等は匈奴支配時期に製鉄技術を学び、3世紀には鉄器の使用が普及していた。やがて阿史那氏の突厥部は南のアルタイ山脈を越え、トルファン西北のボグダ山,天山山脈に移り住むと、その鍛鉄技術をもって急速に発展し、テュルク系諸族の中での最強部族となった[10]。 中国の史書にはいくつかの伝説が記載されている。 「突厥人は匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。別の部落を成した。後に隣国に破られ、一族は尽く滅ぼされた。10?の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。阿史那はその一つである。子孫は繁栄し、次第に数百家となった。数世代を経ると、各々洞窟を出て茹茹(柔然)に臣従した。彼らは金山(アルタイ山脈)の南側に住み、茹茹の鉄工となる。金山の形が兜?に似ており、俗に兜?を突厥と言うため、それを号とした。或いは云う。突厥の祖先は索国の出で、匈奴の北に在った。その部落大人(たいじん:部族長)は阿謗歩といい、兄弟が17人いた。阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ[11]。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を寒露から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。
名称(テュルク)
中国語の表記
起源
学術的見解
伝説
『周書』
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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