『空海の風景』(くうかいのふうけい)は、司馬遼太郎の歴史小説。平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品である。第三十二回(日本芸術院賞:昭和50年度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作。
『中央公論』1973年(昭和48年)1月号から1975年(昭和50年)9月号に連載され、連載時のタイトルは『「空海」の風景』。 司馬は本作で空海を「日本史上初めての普遍的天才」と評する。ここでいう「普遍的」とは国境・民族の垣根を超えて通用する人物という意味であり、土俗の呪術として多分に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場の天竺・唐(インド・中国本土)にもなかった鮮やかな思想体系を築き上げたこの空海の出現によって、日本史上初めてそうした「人類的存在」を得ることができたと評している。 題名の『空海の風景』とは、空海の生きた時代がはるかに遠い古代であるため現存する史料が乏しく空海の人物に肉薄することが甚だ困難であり、せめて彼が存在した時代の彼にまつわる風景を想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かぶことを期待して執筆されたことにちなむものである。司馬夫人の福田みどりによると本作は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬したという[1]。 ※本作は空海の行動について逐一論評を加えながら進行する構成になっており、司馬作品の特徴である随筆的な作風が一層強くなっている。 讃岐国多度郡の郡司・佐伯氏の家に生まれた空海は、幼少の頃から飛び抜けた利発さを見せ、さながら神童のように扱われて成長した。長じて後、中央の官吏としての栄達を望む父母の期待を受けた空海は、都に出て大学寮の明経科に入学する。儒学を始めとする唐の学問を学ぶについて空海は際立った理解力を示して周囲を驚かせるが、しかしその道で安住するには世界の有り様や自己の生命そのものについての関心が強すぎた。儒学は浮世の処世を説く学問としか思えず、空海の渇望する宇宙と生命の真実について何ら解答を与えてはくれない。翻って仏法の世界を見れば、せせこましい世俗の理などを超越して抽象的思考の中でこの世の普遍的真理を追求しようとしている。たぎるような想像力を蔵するこの若者は、経書を暗誦するのみの学科に飽きたらず程なく大学を飛び出し、仏門に入る決意をする。この若者の出家の動機は平安後期に流行する世を儚んで山奥の草庵に引き籠もるといった遁世じみたものではさらさらなく、この世を動かす大宇宙の原理を知りたいという沸き立つような好奇心に突き動かされてのことだった。 私度僧となった空海は、ふとしたきっかけから虚空蔵菩薩の秘術を知る。これらの秘術はインドにおいて仏教とは別の精神風土から生まれたものであり、仏教思想の中で止揚されて「密教」として習合されたものであり、同様のものが数多く唐を経て断片的に日本にもたらされていた。多分に巫人的体質を持ち超自然的な怪異の存在を信じる空海は、我が身に電撃的感応を与えてくれるこれらの秘術に強い関心を抱く。そして秘術の実践に相応しい場所を探して山林を遊行する中、室戸岬の洞穴で得た神秘体験が儒教的教養を完全に打ち砕き肉体を地上に残したままその精神を抽象的世界に没入させる決定的な契機となる。見えるものといえば空と海のみの洞穴の中で夜明けの明星が衝撃とともに口中に入るという体験をしたことこそが「空海」の名を名乗るきっかけとなり、彼をして後の弘法大師たらしめる最初の一歩となった。以後、空海は畿内や四国の山林を徘徊して修養に励む一方で諸寺を巡って万巻の経典を読み漁った末に『大日経』に巡りあう。この世のすべての現象は大宇宙の真理である大日如来の一表現であり、諸現象の大本であるこの普遍的原理の中に入り込み、原理そのものと一体化する即身成仏こそを究極の目的と説くその思想に空海は激しく魅了される。欲望を否定してともすれば死へと傾斜しがちな釈迦の仏教に違和感を感じていた空海は、これにより生の謳歌を肯定し後にはその当然の属性である愛欲すらも宇宙の真理の一表現と考えることとなる。やがて空海は大日如来を中心に雑多な状態にある密教を体系立てる発想に辿り着く。折しもこの時期インドでは大日如来を本尊に据える新たな密教体系が成立していたが、空海はそれを知らずに独力で酷似した密教体系を着想した。 密教こそが仏教の完成形態であると確信した空海は、密教思想の追求に生涯を捧げる決意をし、教義についての疑義を正すべく遣唐使船に乗って唐へ渡る。同じ船団には宮廷の侍僧を務め、稀に見る俊才僧として都で名高い最澄もいた。最澄の目的は天台宗の体系を日本に移入することにあったが、空海はすでに天台の教義を古色蒼然としたものと考えていた。八方を走り廻って渡海の費用を工面せねばならなかった自身と対照的に宮廷の寵愛を一身に受けるその境遇に対する鬱屈もあり、空海は後半生に折にふれて対峙することとなる最澄に対して最初から良い印象を持たなかった。難儀な航海の果てに唐に辿り着いた空海は、長安の都で金剛頂系と大日経系の二つの密教体系を受け継ぐ大唐でも唯一の僧である青竜寺の恵果和尚に師事し、恵果の法統の正嫡の伝承者・真言密教第八世法王として灌頂を受けて帰国の途につくこととなる。
概要
あらすじ