穴吹義雄
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穴吹 義雄1956年頃撮影
基本情報
国籍 日本
出身地香川県香川郡香川町(現・高松市香川町)
生年月日 (1933-05-06) 1933年5月6日
没年月日 (2018-07-31) 2018年7月31日(85歳没)
身長
体重175 cm
81 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手内野手
プロ入り1956年
初出場1956年3月21日
最終出場1968年9月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


香川県立高松高等学校

中央大学

南海ホークス (1956 - 1968)

監督・コーチ歴


南海ホークス (1969 - 1985)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

穴吹 義雄(あなぶき よしお、1933年5月6日 - 2018年7月31日[1])は、香川県香川郡香川町(現・高松市香川町)出身のプロ野球選手外野手内野手)・コーチ監督解説者評論家

1962年から1966年までの登録名は穴吹 隆洋(あなぶき たかひろ)。
経歴

進学校・高松高校時代から評判の打者で、1951年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが尽誠学園に敗退。

1952年中央大学経済学部へ進学後も更に才能が開花[2]東都大学野球リーグでは2年次の1953年春季リーグで優勝、同年の大学全日本選手権では決勝で立大に敗れ準優勝。リーグ通算99試合出場、349打数111安打、打率.318、6本塁打、55打点。3年次の1954年秋季リーグと、4年次の1955年春季リーグに2季連続首位打者になる。大学同期に伊藤芳明鈴木隆がいた。各球団がこぞって穴吹の下に来始めたのはこの頃で、穴吹の憧れの球団は巨人であった。巨人からも誘いはあったが、一番早く声をかけてきたのが南海であった。3年時、後にチームメイトとなる1年先輩の円子宏東京農業大学)を見に行った鶴岡一人監督が自ら出向いて声をかけ、穴吹に打撃のコーチをした[2]。穴吹曰く「それが連続首位打者につながった」といい、鶴岡も何くれとなく穴吹の相談に乗っていた。その恩義と「郷里の高松出身の大先輩、巨人・水原茂監督と西鉄三原脩監督の引き立てのない球団で自分の力だけで野球をやりたかった」ことから、4年次の夏に南海入りを決めた[2]。ところが当時は自由競争時代で、穴吹獲得に各球団はあらゆる関係者にアプローチし、切り崩しを図った。一番手っ取り早いのが札束攻撃で、南海入りが噂されると、各球団のスカウトが札束持参で穴吹の4人の兄や親戚、関係者のところへ行き、説得を約束させた。金が絡むと兄弟といえどもギクシャクし、縁を切るとかとんでもない話も出るほどで、すでに両親がいなかった穴吹家は一時バラバラになってしまう。その一方で各球団は契約金をさらに上乗せして獲得競争をあおるなど、常軌を逸した争奪戦に発展した[2]大阪1000万円、毎日900万円、中日750万円、西鉄700万円と当時大学新卒の会社員の月給が1万円であった時代にとんでもない額が提示された。南海は鶴岡が心配をして、当初の契約金より上乗せして、ようやく提示した球団の中で最低の700万円であったが、それでも穴吹の気持ちは変わらず、南海入り。とんでもない額の契約金でプロ入りしたと思われていた男は、実は提示額最低の金額でプロ入りをしていたのであった[2]。中央大理事を兼務していた大川博オーナーが率いる東映も穴吹争奪戦に参戦していたが、南海は兄など家族、後援者の信頼も勝ち得ていた[3]。水原、三原らの強烈な勧誘を跳ね退け、鶴岡への義理を立てて、1955年秋に南海ホークスへ入団。中央大先輩の深見安博の仲介もあった[4]。南海入団の際、騒動の顛末は小野稔の小説『あなた買います』として出版され、同書を基に大木実佐田啓二岸惠子らの出演で松竹から映画化された[2][5]。穴吹はプロ入り後、当時の話はしたがらなかった[6]

1956年3月21日阪急との開幕戦大阪)に6番・三塁手として初出場を果たし、2回の初打席で梶本隆夫から初安打を放つ。4回は三振に終わったが、7回はまた安打を放つ[7]。9回裏に先頭打者で登場して柴田英治から劇的なサヨナラ本塁打を放ち[2]、気を使っていた大物新人が初めて思い切りバットを振り、新人選手による開幕戦サヨナラ本塁打第1号となる。穴吹は「ホームランはインコースのシュートボール。最終回だし、同点だったので長打を狙った。それまでは徹底的な外角攻めもあって右方向ばかり狙っていたが…。とにかく初めての開幕戦であがっていたけど、このホームランで自信がつきました」と振り返っており、右方向を狙っても2安打で、サヨナラ本塁打と合わせて猛打賞でのスタートは穴吹の前途洋々たる選手生活を予感させるものであった[2]。同年は一塁手としても起用され52試合に先発出場。

1957年には三塁手と外野手を兼ねて初の規定打席(12位、打率.274)に到達、15本塁打を放つ。4月11日大映戦(後楽園)では、本塁打を放ちながらヒットと勘違いして全力疾走し、前にいた走者の岡本伊三美を追い越してアウトになるという珍プレーも演じている。華々しくデビューしたルーキーであったが、本来はバランスの良い中距離打者で中軸を打つタイプではなかったため、次第に脇役に回ることが多くなる[3]

1959年からは外野手に専念し、下位打線を打つことが多くなったが、リーグ優勝に中心打者として貢献。同年から西鉄の流線型打線に対抗するため、従来の機動力野球の方針から転換して400フィート打線を形成したが、穴吹は後半から1番打者として起用されている。野村克也は後に穴吹について「鈍足で有名な穴吹義雄が…」と評し、当時は打順の編成などが現在のように緻密ではなかったため、俊足でない穴吹がトップバッターを務めていたと振り返っている[8]。以後のシーズンも夏場の広瀬叔功不振時などに数試合起用されていたが、2番打者に小技の利く半田春夫、広瀬、森下整鎮らが入ることが前提のオーダーであった。


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