穂高岳
常念山脈から望む穂高岳 >説明画像
標高3,190[1] m
所在地長野県松本市、岐阜県高山市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度17分21秒 東経137度38分53秒 / 北緯36.28917度 東経137.64806度 / 36.28917; 137.64806
穂高岳(ほたかだけ)は、中部山岳国立公園[注釈 1]の飛?山脈にある標高3,190mの山(奥穂高岳)を主峰とする山々の総称。日本第3位の高峰。日本百名山[3]、新日本百名山[4]及び花の百名山[5]に選定されている。これらの山々は穂高連峰とも称され、槍ヶ岳とともに槍・穂高連峰とも称される[6]。 奥穂高岳は北アルプス最高峰で、北に向かって涸沢岳、北穂高岳、前穂高岳、南岳、中岳、大喰岳と山稜が連なっており、さらに北に位置する槍ヶ岳も含めて槍・穂高連峰と称されている[7]。前穂高岳以外は主に長野県松本市と岐阜県高山市の境界に位置している。地質的には柱状節理の発達した穂高安山岩類が、山岳氷河の氷蝕作用を受けた地形であり、峻厳な岩峰が南北に走っている[7]。 これらの山々とは別に奥穂高岳の東方には屏風の頭(標高2,565.4m)、前穂高岳、明神岳と連なる山稜があり、吊尾根と呼ばれる尾根で奥穂高岳につながっている[7]。前穂高岳から屏風の頭までの岩峰にはそれぞれI峰(前穂高岳)からVIII峰、明神岳の南方の岩峰にもそれぞれI峰(明神岳)からV峰の番号が付いている[7]。 さらに槍ヶ岳から奥穂高岳までの南北の山稜は、奥穂高岳から南西方向に向きを変えて、西穂高岳や西穂高独標に連なっており、これらも穂高安山岩類で構成されている[7]。これより南西側は緩やかな地形の滝谷花崗閃緑岩の分布域で、その延長線上に焼岳が位置している[7]。 山麓へは奥穂高岳より吊り尾根を経て、前穂高岳に至り、カール (圏谷) を下れば、上高地河童橋に至る。また、岐阜県側に穂高岳山荘から白出沢を下るか、あるいは西穂高岳からロープウェーかその下の道を下れば、新穂高温泉である。 穂高岳は、剱岳、谷川岳と共に日本三大岩場に数えられている。特に、涸沢岳から南岳の稜線の飛?側には、谷川岳一の倉沢と並ぶ有数の岩場滝谷
概要
穂高岳登山の拠点となる涸沢は、奥穂高岳と前穂高岳に挟まれた吊り尾根よりU字型にえぐられた圏谷で、夏でも雪渓が残る。
長年、南アルプスの間ノ岳と並び国内第3位の標高とされてきたが、2020年11月1日放送の林先生の初耳学ではGNSSにより3191mと測量された。国土地理院も参考にするとしており[8]、今後単独3位となる可能性がある。 穂高の名前は、1646年(正保3年)の国絵図で「保高嶽」と記載されていた。 岐阜・桂峯寺所蔵の1690年(元禄3年)円空作十一面観音菩薩立像の裏には「保多迦嶽」の記載がある[9][10]。1693年(元禄6年)に穂高神社の宮司により「穂高嶽」と記載された。 穂高岳の名称は、1909年に槍ヶ岳から穂高岳に初縦走を行った鵜殿正雄の命名がきっかけであるとされている[11]。 穂高岳は主に穂高安山岩[12]と呼ばれるデイサイト質の溶結凝灰岩で形成されている。これは約175万年前の噴火でもたらされた火砕流(丹生川火砕流)由来で、この噴火では姶良カルデラの噴火(約3万年前)の約2倍、1914年(大正3年)の桜島噴火の約430倍、雲仙普賢岳の噴火(1991-1995年)の約2800倍のマグマが噴出したとされる。その噴火の後に100万年かけて2000mほど隆起し穂高岳が形成された。 また、穂高山系には涸沢カールなど、数多くの氷河地形が確認されている。1963年、国土地理院の五百澤智也は空中写真の分析から、従来氷河地形とされて来なかった横尾谷
山名の由来
地質
火山地形
氷河地形
人が係わる歴史
1690年(元禄3年)-円空上人が保多迦嶽に登頂[9][10]。記録上初。
1880年(明治13年) - ウィリアム・ゴーランドが上條嘉門次を案内にして、明神岳に登頂した。
1893年(明治26年) - 測量官の館潔彦が前穂高岳に初登頂した。同年にウォルター・ウェストンも前穂高岳に登頂した[15]。
1906年(明治39年) - 測量官の阿部郡治が奥穂高岳に初登頂した。
1909年(明治42年)8月 - 鵜殿正雄らのパーティーが奥穂高岳に登頂し、槍ヶ岳への縦走を行った。