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穂高 健一(ほだか けんいち、1943年[1]10月12日 - )は、日本の小説家[1]、ジャーナリスト、写真家、登山家。名字の「穂高」はペンネームであり[2]、本名は非公開。 日本ペンクラブ広報委員会・会報委員会、電子文藝館の各委員。 読売・日本テレビ文化センター、朝日カルチャーセンター、目黒学園カルチャースクールなどで、「文学賞を目指す小説講座」、「エッセイ教室」、「フォト・エッセイ」の講師を務める。 東京都葛飾区在住。かつしか区民大学では、「区民記者講座」の講師も務める。[3] 作家・吉岡忍、伊藤桂一、小中陽太郎、出久根達郎、高橋千劔破、新津きよみ、山名美和子、ジャーナリスト・轡田隆史、大原雄、吉澤一成、井出勉、相澤与剛、文藝評論家・清原康正らと交流を持つ。 中学生時代は港町であったので、住いの近くに貸本屋があり、小遣いをほとんどつぎ込んだ。大衆小説(山手樹一郎、柴田錬三郎、富田常雄、池波正太郎など)を片っ端から読んでおり、新刊が棚に並ぶのが待ち遠しく、それが作家になる土壌になった。 学生時代は登山一辺倒で、北アルプスに4シーズン登っていた。滑落、落石で、3度は死に目に遭う。「この場で死ぬんだな。寂しいな」という焦燥感に襲われた経験もしている。 妻とは中央大学の経済ゼミと、大妻女子大学との交流・合コンで知り合う。その後に交際を重ね、3年ほど経って結婚する。 社会人の最初の仕事は、鉄鋼を扱う商事会社だった。 28歳での大病をキッカケに、病床で小説の習作をはじめる。数年後、「講談社フェーマススクール 伊藤の小説批評は厳しく、「原稿用紙は何も書かなければ、一枚3円。100枚文字を書けばトイレットペーハー一つの交換にもならない」という酷評は強烈に印象に残っている。その言葉にも負けす、これまで這いあがってきた。 「10年毎日書けば作家になれる」それを信じたにもかかわらず、純文学にこだわっていたので、20年間も書きつづけても、文学賞の受賞ひとつもなかった。作家になるまで、家庭内ではずっと肩身が狭かった。 習作から25年経って、「第42回地上文学賞
来歴
人物
純文学や現代小説を書いていたアマチュア作家の頃、取材申し込みは勇気がいった。「何に載るの?」という正面からの質問が最も胸に突き刺さったそうだ。同人誌だったので、その声も小さかったと話している。
作品に対するこだわり
プロの道に入り、ミステリーとか、歴史小説とか、巾を拡げる。「魅力的な人物を克明に描く」そうすれば、良い小説が生まれる。それをモットーにしている。
交友関係とのエピソード
日本ペンクラブの広報委員として、会長以下各委員などと交流が多くなり、私の住まいに近い「昭和が残る葛飾・立石」で、作家やジャーナリストを誘い、交流の輪を広げている。
指導する講座が終れば、受講生と酒を飲み、作品論、文学論を語り合っている。指導者と受講者の心の交流を楽しみにしている。
取材の姿勢
取材が大好き人間と自認している。「未知の人との出会いを大切にし、心の奥底を語ってもらう。それを作品に落とし込む。