穂積皇子
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穂積親王
時代
飛鳥時代-奈良時代
生誕不詳
薨去和銅8年7月27日715年8月30日)
別名穂積皇子
官位一品知太政官事
父母父:天武天皇、母:蘇我赤兄大?娘
兄弟高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子、穂積親王、長皇子弓削皇子磯城皇子舎人親王新田部親王
大伴坂上郎女
上道王境部王
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穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇の第五皇子[1]文武天皇末から元明天皇朝を通じての知太政官事
経歴

前半生は不明な点が多い。持統朝までは持統天皇5年(691年)に封500戸を与えられた(このときの冠位は浄広弐)こと以外、詳細な事跡は不明である。また『万葉集』に基づき、藤原氏の血を引く但馬皇女藤原不比等の姪。一説では高市皇子妃)との密通が露顕し、一時左遷されていたとの推測もある。

文武朝に入り、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。大宝2年(702年)12月の持統上皇の死去に際して作殯宮司を、翌大宝3年(703年)10月の葬儀では御装長官を務めている。

慶雲2年(705年)5月に異母兄・忍壁親王が死去すると[2]、同年9月にその後任として知太政官事に任ぜられる。文武朝末から元明朝を通じて太政官の統括者となり、左大臣石上麻呂右大臣藤原不比等とともに政権を支えた。和銅8年(715年)正月に一品に叙せられるが、母の大?娘に先立って同年7月27日に死去。享年は40代前半と推定される。最終官位は知太政官事一品。

群馬県にある多胡碑には、和銅4年(711年)3月9日の日付とともに「太政官二品穂積親王」と名前が刻まれている。また、穂積親王を高松塚古墳の被葬者とする説もある。
和歌

万葉集』に4首の歌が残っている。以下に挙げる、そのうちの1首は和銅元年(708年)の但馬皇女薨去を悼んで読んだ歌。

降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに

次の1首は後年になって酒宴の席で過去の出来事を思い出して詠んだ歌。

家にありし櫃に鑠さし蔵めてし 恋の奴のつかみかかりて

官歴

六国史』による。

時期不詳:浄広弐

持統天皇5年(691年) 正月13日:封戸500戸

時期不詳:二品

大宝2年(702年) 12月23日:作殯宮司(持統天皇崩御

大宝3年(703年) 10月9日:御装長官(持統天皇葬儀)

大宝4年(704年) 正月11日:益封200戸

慶雲2年(705年) 9月5日:知太政官事

和銅8年(715年) 正月10日:一品

系譜

父:
天武天皇

母:蘇我大?娘蘇我赤兄の娘)

同母妹:紀皇女田形皇女六人部王妃)



妃:大伴坂上郎女大伴安麻呂の娘) - のち異母兄・大伴宿奈麻呂の妻

男子:上道王[3](?-727)

男子:境部王[4]


脚注^ 『続日本紀』霊亀元年7月27日条
^ 『続日本紀』慶雲2年5月7日条
^ 『万葉集』巻16-3833
^ 『万葉集』巻4-694

参考文献

宇治谷孟『日本書紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1988年


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