凡例穂井田 元清
毛利元清肖像(来福寺
穂井田 元清(ほいだ もときよ)/毛利 元清(もうり もときよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国の戦国大名である毛利元就の四男。名前は穂田元清とも表記する。 天文20年(1551年)、安芸国の戦国大名である毛利元就の四男として誕生する。母は元就の継室[注釈 1]である乃美大方。 元就の正室・妙玖の子である毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人の異母兄達が元就から大切にされたのに対して、元清を始めとする継室(側室)の子達は、弘治3年(1557年)11月25日に元就が記した三子教訓状において「虫けらなるような子どもたち」と表現されている[注釈 2]。しかし粗略に扱われたわけではなく、「もしこのなかでかしこく成人するものがあったならば、隆元・元春・隆景は哀れんで、いずれの遠境などにでもおいてほしい」とも依頼している。一方で「たいては、まぬけで無力なものだろうから、その時はどのようにされてもかまわない」とも述べており、そこには正室の子と継室(側室)の子を明確に分ける元就の配慮が読み取れる。
生涯
幼年期から元服
同年4月まで大内氏旧臣で新当流の達人であった石川種吉から兵法(剣術)を習い、相伝を受けている[3]。 永禄11年(1568年)に毛利氏が九州北部に侵攻した際に備中国が手薄になると、これに乗じて宇喜多直家が毛利氏に背き、備中松山城、備中猿掛城を攻め落とした。元清は父に命じられて三村元親と共に猿掛城を奪還し、松山城からは庄高資
穂田姓を名乗る
永禄12年(1569年)、毛利氏が九州北部の覇権を巡って大友氏と対立したため、立花山城の戦い、門司城の戦い、多々良浜の戦いに出陣。同年12月には備中に兵を移し、熊谷信直や三村元親と共に宇喜多氏に臣従した植木秀長の佐井田城攻略を目指して兵を進め、後月郡・小田郡・浅口郡を順調に平定して佐井田城に向かったが、援軍に駆けつけた宇喜多直家配下の戸川秀安に敗れ撤退した。
永禄13年(1570年)頃、安芸桜尾城を与えられ[4]、元亀2年(1571年)2月には再び庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共同で攻め込み、庄高資を討ち取って松山城を奪い返した。
天正2年(1574年)、毛利氏がそれまで敵対していた宇喜多直家と事実上の同盟を結んだため、宇喜多直家に父・三村家親を暗殺された遺恨を持つ元親は毛利氏から離反した。
これに対し、兄の元春と隆景に従って三村元親討伐のため出陣し、翌天正3年(1575年)6月には三村元親を切腹させ、11月には三村氏残党の拠る杠城を攻め落とし、三村氏を完全に降伏させた(備中兵乱)。この功と元清自らの愁訴によって猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清は桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて備中猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。
この時、元清は安芸桜尾城の支配権を保持したまま猿掛城の権限を手に入れているが、一人が二城を有したことは毛利氏においては異例の出来事であり、元清が新たに猿掛城を手に入れたことに関して八弟の末次元康は不満を顕わにしている。このことから、元清が吉川元春や小早川隆景を除く他の毛利一族よりも優遇されていたことが窺える。
また、この時に猿掛城のあった穂田郷の在名から、穂田(穂井田)姓を名乗っている。後年に作成された「末家両川巨室系図」などの家譜等では、元清が三村家親の子である穂井田元祐(庄元資)の養子となり穂井田姓を名乗ったとしているが、年不詳(天正7年以降)8月14日付の村山大夫宛て毛利元清書状[5]において、毛利輝元に遠慮して在名である「穂田」を名乗ったと元清自らが述べ、庄氏との関係を否定している[6]。
天正4年(1576年)、麦飯山の戦いにおいて宇喜多基家の軍勢と戦い、天正5年(1577年)に織田信長による中国攻めが始まると、児島の戦いにおいて信長に通じた宇喜多直家の軍勢と戦ってこれを撃退。また、羽柴秀吉の軍勢に取り囲まれた桂広繁の軍勢を元清自らが3,000の兵を率いて救出した。
天正6年(1578年)の上月城の戦いでは、七弟の天野元政と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。