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凡例稲葉正則
時代江戸時代前期
生誕元和9年6月2日(1623年6月29日)
死没元禄9年6月6日(1696年7月4日)
別名鶴千代(幼名)
戒名潮信軒泰応
墓所神奈川県小田原市紹太寺
官位従四位下美濃守
幕府江戸幕府老中→老中首座→大政参与
主君徳川家光→家綱→綱吉
藩相模小田原藩主
氏族稲葉氏
父母父:稲葉正勝、母:山田重利の娘
兄弟正則、妹(酒井忠能室)
妻正室:毛利秀元の娘、継室:堤貞長
稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代の譜代大名、老中、大政参与。相模小田原藩第2代藩主。初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。稲葉正成と春日局の嫡孫。正成系稲葉家宗家3代。 母は早世したため、祖母春日局に養育されていたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続した。幼少のため大伯父(春日局の兄)にあたる斎藤利宗の補佐を受けた。寛永15年(1638年)に元服、利宗の補佐は終わったが、以後は父方の従兄に当たる堀田正盛が後見人を務めた。 寛永17年(1640年)から翌18年(1641年)にかけて領内総検地を実施、正保4年(1647年)に人口調査のため人別改を行い、万治元年(1658年)から万治3年(1660年)にかけて定免法に切り替えて再び総検地を実施、藩政の基礎を築いた。また、鉄牛道機を招いて小田原紹太寺、江戸弘福寺の開基となった。明暦元年(1655年)の朝鮮通信使の接待も請け負った。 春日局の孫ということもあり幕閣として重用され、明暦3年(1657年)9月28日に老中となり、将軍の名代や代参を経て、翌万治元年7月12日から評定所へ出座、閏12月29日に月番と老中奉書加判の上意を受けて幕閣への参加を認められた。寛文3年(1663年)に1万石加増され、4代将軍徳川家綱の文治政治を担うことになる。
生涯
延宝8年(1680年)に1万5000石を加増、合わせて大政参与に任命された。同年5月8日に家綱が亡くなり、家綱の弟綱吉が5代将軍に就任して忠清が12月9日に大老を解任されると、翌天和元年(1681年)3月から越後騒動の再審を開始、7月8日に紅葉山の家綱の仏殿建立の奉行を務め、12月8日に大政参与を退いた。天和3年(1683年)閏5月27日隠居、家督を長男の正往に譲った。
元禄9年(1696年)、江戸で死去した。享年74。遺体は紹太寺に葬られた。遺領は正往が小田原藩10万2000石を相続、残りは他の息子たちに旗本領として分知された。 正室の父毛利秀元から茶の湯を学び、学問・宗教を通して林鵞峰、吉川惟足、鉄牛道機らと交流を深め万治元年に隠元隆gと対面してから黄檗宗へ傾倒、隠元の弟子の鉄牛を小田原へ招いて紹太寺と弘福寺の創建を行った。また、長崎と江戸を取り持つ役目も負い、オランダ商館館長や随行員との物品の交流、藩の医者をオランダ人医者に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた。 当時の社会事業となっていた新田開発については、鉄牛の仲介を経て町人請け負いの新田開発を実行、河村瑞賢については寛文9年(1669年)から交流があり、家中の借金の仲介から瑞賢と接触、瑞賢が幕府に登用される元を作った。親戚で婿でもあった堀田正俊や伊達綱村への後見・経済援助も行い、秀元亡き後の毛利氏の後見人も務めた。 天和3年の隠居後、祐筆が書いた日記の編纂を家臣に命じて『永代日記』が作成、後に紛失、書き抜きを経て32冊が京都府京都市伏見区の稲葉神社
人物
春日局が3代将軍徳川家光から賜った聴秋閣は正則の江戸屋敷に移築された。聴秋閣は明治時代に原富太郎が手に入れ、現在の三渓園内に建てられている。 正室、継室
系譜
毛利秀元の娘(正室)
堤貞長
子女
稲葉正往(長男)生母は正室
稲葉正倚(次男)
稲葉正員(三男)
稲葉正辰(四男)
稲葉正直(五男)
土井利意(七男)生母は正室
稲葉通周(八男)
稲葉正如(十男)
稲葉正佐(十一男)