稲葉 光雄基本情報
国籍 日本
出身地静岡県清水市(現:静岡市清水区)
生年月日 (1948-10-02) 1948年10月2日
没年月日 (2012-08-11) 2012年8月11日(63歳没)
身長
体重174 cm
67 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1970年 ドラフト2位
初出場1971年5月14日
最終出場1983年6月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
静岡県立清水工業高等学校
日本軽金属
中日ドラゴンズ (1971 - 1976)
阪急ブレーブス (1977 - 1983)
阪神タイガース (1984)
コーチ歴
中日ドラゴンズ (1986 - 1997)
日本ハムファイターズ (1998 - 2001)
中日ドラゴンズ (2009 - 2012)
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稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 2012年8月11日)は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 5歳の時に兄からソフトボールでボール投げをやらされたことがきっかけで野球を始める[1]。清水工業高校の2年生の時に投手となる[1]。日本軽金属へ入社し、1968年のドラフト会議にて広島東洋カープから6位で指名されるが、まだ20歳と若かったことや会社から残留を要請されたこともあり、入団を拒否した[1]。1970年の都市対抗には大昭和製紙の補強選手として出場し、チームの優勝に貢献。 1970年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。 1971年8月25日の巨人戦(後楽園)に延長11回裏から登板して4イニングを無失点に抑え、プロ初勝利を挙げる。この年は6勝0敗を記録した。 1972年は開幕から3連勝したが4月25日の阪神戦でプロ初黒星を記録し、プロ入り連勝は9で止まる[2]。20勝11敗の好成績を記録し、特に巨人戦には6勝3敗と強く「巨人キラー」と称された[3]。しかし翌73年は6勝12敗、1974年には肘の故障もあって4勝と、年々成績が下降した。1974年のロッテとの日本シリーズでは2試合に登板。第4戦では先発として起用され、4回途中3失点で降板した。 174センチ、67キロとプロの投手としては小柄であったが切れのいい球を投げ、スピンの効いた落差の大きなカーブを武器とした[4]。 1976年オフに、戸田善紀・森本潔・大石弥太郎・小松健二との3対4の大型トレードにより、島谷金二・大隅正人と共に阪急ブレーブスへ移籍。 1977年に17勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得[5]。リーグ3連覇に貢献し、同年の巨人との日本シリーズでは第4戦に先発して5回1失点で降板し、6回から山田久志へ繋いだ。チームの3年連続日本一に貢献した。 1978年も10勝5敗の成績を挙げ、チームの4年連続リーグ優勝に貢献。後期日程の9月11日、西京極球場での近鉄バファローズとの首位攻防戦に先発して1失点で完投して勝利投手となり、近鉄の先発の鈴木啓示は敗戦投手となって連続試合完投勝利の記録が10で途切れた[6]。ヤクルトとの日本シリーズでの登板は第2戦に中継ぎで登板した1試合のみであった。 その後も先発陣の一角として活躍するが、1983年には登板機会が急減。 1984年には阪神タイガースへ移籍するが一軍登板は無く、同年限りで現役を引退。
経歴
プロ入りまで
現役時代
引退後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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