稲葉修
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日本政治家稲葉 修いなば おさむ

生年月日 (1909-11-19) 1909年11月19日
出生地 新潟県
没年月日 (1992-08-15) 1992年8月15日(82歳没)
出身校中央大学法学部独法学科卒業
中央大学大学院修了
前職中央大学教授
所属政党(民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党河野派中曽根派
称号正三位
勲一等旭日大綬章
法学博士
子女長男・稲葉大和(元衆議院議員)
親族兄・稲葉圭亮(衆議院議員)
第34代 法務大臣
内閣三木内閣
三木改造内閣
在任期間1974年12月9日 - 1976年12月24日
第94代 文部大臣
内閣第1次田中角栄内閣
在任期間1972年7月7日 - 1972年12月22日
衆議院議員
選挙区旧新潟2区
当選回数14回
在任期間1949年 - 1990年
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稲葉 修(いなば おさむ、1909年11月19日 - 1992年8月15日)は、日本政治家文部大臣(第94代)、法務大臣(第34代)、衆議院議員(14期)。法学博士

兄の稲葉圭亮も政治家で衆議院議員だった。長男は元衆議院議員の稲葉大和
来歴

1909年11月19日、現在の新潟県村上市に生まれる。村上中学旧制山形高校[1]といずれの学校でもいわば武勇伝(中学では生徒会長として祭りの日に学校を休みにしろと同盟休校を主導したため、高校ではカンニングが発覚したため)での中途退学を経て、1936年中央大学法学部独法学科を卒業。1940年中央大学大学院を修了。1945年中央大学教授に就任。憲法行政法を講じていた。1962年法学博士号を取得[2]

1947年第23回衆議院議員総選挙民主党公認で旧新潟2区から立候補するも落選。1949年第24回衆議院議員総選挙で初当選。以後、当選14回。

改進党で立候補した1952年第25回衆議院議員総選挙で落選したが、1953年第26回衆議院議員総選挙で国政復帰。その後日本民主党を経て自由民主党に参加。自民党では河野派中曽根派に所属。自民党憲法調査会長として、憲法改正を党の方針とする談話を発表した[3]第1次田中角栄内閣文部大臣三木武夫内閣法務大臣を歴任した。

法務大臣就任については、当初、三木首相は坂田道太を法務大臣に、稲葉を防衛庁長官に充てるつもりだったが、「腰の曲がった稲葉が防衛庁長官では見映えが悪い」と松野頼三が三木に進言したために、坂田が防衛庁長官に就任した。

法務大臣在任中の1975年5月3日に自主憲法制定の国民会議で「日本国憲法は欠陥憲法」と発言して当時主流の護憲派の糾弾を受けた。同年に日本赤軍によるクアラルンプール事件が発生して獄中同志の釈放を要求された際には、三木内閣の関係大臣の協議の結果として釈放に応じることになり、法務大臣として検事総長布施健に検察庁法第14条が準用される形で指揮権が発動され、5人のメンバーが超法規的措置で釈放された。1976年にロッキード事件が発覚。法相として新聞のインタビューで「これまで逮捕した連中は相撲に例えれば十両か前頭。これからどんどん好取組が見られる」「捜査は奥の奥まで神棚の中までやる」とコメントを残し、7月27日検察首脳会議で決定された田中角栄逮捕を許可した。この稲葉の姿勢に対して田中派は猛反発し、それを受けて稲葉も反角栄の立場を固めることになった。

なお、田中角栄のエピソードとして、「東京拘置所に拘置されているときに、アイスクリームを自費で買えるように法務大臣に圧力を掛けて、購入できるようにした。現在でも東京拘置所ではアイスクリームが自費購入できる」というものがあるが、本当に角栄が圧力をかけたのか、そして稲葉がそれに応じたかは不明である。

一方で、ロッキード事件を受け、国会で法務大臣として質問を受けるようになると、野党議員を皮肉った放言などを繰り返した。三木首相が「(放言を)注意する」と語ったことを踏まえ、野党側がどのような注意を受けたかを問い質されると、「ぜーんぜん」の一言で片づけるなど稲葉節と呼ばれたやり取りで押し切った[4]

法務大臣在任中に大久保清死刑執行を命令したことでも知られている。稲葉が法相を務めた時期は、その前後の法務大臣と比較して死刑の執行数が増加した。更に、1桁執行の傾向を示す1972年以降で、2年連続で2桁執行(1975年:17人、1976年:12人)を行った法務大臣は稲葉修のみである。また単年で見た場合、1度に23人の死刑執行命令書に署名した田中伊三次より少なく、昭和前期並みである。

1976年暮れの総選挙では現職閣僚でありながら最下位(4位)当選。しかも、次点とは93票差で辛勝だった[5]。これは新潟の英雄田中角栄を逮捕させたことに対する新潟県民の反発を買ったとされた[6]

1980年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章[7]

大平正芳内閣時には、三木、福田赳夫、中曽根の三派提携に動き、大角連合と鋭く対立した。1980年のハプニング解散でも所属する中曽根派の意向に反して、中尾栄一と共に反主流派の大平内閣不信任決議欠席に同調したが、第36回衆議院議員総選挙衆参同日選挙)で落選の憂き目に会う。1983年第37回衆議院議員総選挙で国政復帰、1990年衆議院解散に伴い、政界から引退した。

1992年8月15日、老人性肺炎心不全のため、死去した[8]。82歳没。死没日をもって正三位に叙され、銀杯一組を賜った[9]


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