稲荷神社
所在地岡山県倉敷市茶屋町1547
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度34分53秒 東経133度49分46秒 / 北緯34.58139度 東経133.82944度 / 34.58139; 133.82944 (稲荷神社 (倉敷市茶屋町))
稲荷神社(いなりじんじゃ)は、岡山県倉敷市茶屋町に鎮座する神社。茶屋町稲荷神社(ちゃやまちいなりじんじゃ)とも表記される。 もともと、倉敷市茶屋町一帯は完全に海域で「吉備の穴海」と呼ばれており、近世に徐々に干拓されていき陸地化した。宝永4(1707)年、一連の干拓が完成すると「境川」と呼ばれる川より北側を早島沖新田村(早沖)、南側を帯江沖新田村(帯沖)とした。 帯江沖新田村の開村後、氏神勧請の議論が起きた際、領主戸川公より現在の神社鎮座地が寄進された。この土地の四方に堀を掘り、その際の土を使い土地の地上げを行った。そこから、寄進地を南北に二分し、北側二反を境内地、南側三反を神饌田とした。その氏神には、早島村城山正一位稲荷大明神の御分霊が勧請された。[1] 享保18(1733)年に本殿が完成した。造営の際は、村内在住の大工のみでは人手が足らず、当時有名であった塩飽(下津井沖の塩飽の本島)から大工を招いた。本殿造営の翌年である享保19(1734)年6月、京都の伏見稲荷神社の御分霊を勧請した。神社では、これを以て稲荷神社鎮座の年としている。その後の安永3(1774)年、本殿を境内東南に移築し、旧本殿跡地に再び本殿を造営した。東南に移築された旧本殿は、摂社・荒神社の社殿として現在に至っている。[1] 江戸時代は法輪寺の僧職管理下にあったが、明治5(1872)年の「神仏分離令」に伴い、社名を現社名である「稲荷神社」に改称し、御祭神を三柱(宇賀御靈神・須佐之男命・大市比賣命)とした。その際、正一位稲荷大明神の御神体は町内の金毘羅大権現に遷された。大正3年9月24日には神饌幣帛料供進神社に指定された。[2]
祭神
宇賀御靈神
須佐之男命
大市比賣命(神大市比賣命)
歴史
脚注[脚注の使い方]^ a b 『茶屋町史』(改訂版茶屋町史刊行委員会)
^ 『岡山県神社誌』(岡山県神社庁)214頁