稲田大二郎
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出典検索?: "稲田大二郎" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年9月)

稲田 大二郎(いなだ だいじろう、1947年2月24日- )は、日本のチューニングカーコメンテーター自動車バイクの専門誌の出版社三栄元編集局長。愛称は『Dai』。他にも『GOGO』、『不死身の男』(後述)、『暴走機関車』とも呼ばれている。長崎県出身。学習院大学除籍[1]

三栄書房のモータースポーツ雑誌『オートスポーツ』の編集部を経て、日本初の自動車チューニング専門誌『Option』を立ち上げた。また全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)の創設者のひとりとしても知られるが、2010年12月9日、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退[2]した。

『Option』創設当時から、チューニングカーの普及に努めており、東京オートサロンの前身であるエキサイティングカーショーの発起人でもある。近年ではキャンペーンガールとそれ目当ての観客ばかりが目立つ東京オートサロンを批判的に思い、チューンドカー中心のイベントを再びとして、エキサイティングカー・ショーダウンも開催していたが、現在は休止。チューンドカーの地位向上を図るため、「走るからこそ環境を考えよう」のキャッチフレーズを持ち、『Option Land』としてNPO活動もしている。目次

1 略歴

2 エピソード

3 脚注

4 外部リンク

略歴

若い頃は、一人の走り屋として日野・コンテッサやホンダS600を駆り、主に第三京浜首都高速などで走り回っていた。その当時、ミラー部品1つの交換や、タイヤをインチアップしただけで違法改造として警察に厳しく取締まられた不条理さに疑問を抱き、その想いが後に『Option』創刊のきっかけとなったと発言している。

『Option』創刊後、車のチューニング分野では第一人者として位置づけられ、レーシングドライバー以外では、最高速チャレンジに最も慣れ親しんでいる人物のひとりである。

『Option』誌における最高速企画では、わずかなミスやトラブルで死亡事故に直結する危険があるにもかかわらず、ほぼ全ての企画のドライバー役を引き受けていた。しかし、兄弟誌『Option2』編集長であったマサ・サイトーこと斎藤政夫が最高速記録テスト中の事故で他界した事がきっかけで暫くの間、最高速トライアルは自粛していた時期がある。

『Option』や『Video Option』で発表された形としては、1991年にアメリカのボンネビルスピードウェイにて、VG30DETTを搭載されたJUNオートメカニックチューンの日産・フェアレディZ(Z32)にて、車両製作者である小山進がE/BMSクラスにおいて260.809マイル(約420キロ)を記録した時、稲田も記録更新のチャレンジをしたが、同じ速度域でエンジンブローしている。しかし、1997年に同じJUNオートのスカイラインR33GTRでFBGCCクラスの233.217マイル(約370キロ)の世界記録を樹立している、その後は一般道での最高速にチャレンジし、速度制限の無いドイツアウトバーンにて一般車が混じる中、BLITZがチューニングしたBNR34型スカイラインGT-R、通称R-348を駆り、343.35km/hという速度も記録した(公式な物では、クローズドコースは9ffチューンのポルシェ・911が388km/h、一般道をクローズした物を用いた記録ではポルシェ・911の347km/hが世界記録)ほかニュージーランドやアメリカ・ネバダ州のシルバーステーツクラシックなどへチャレンジし、伝説の340キロでのタイヤバースト・クラッシュ劇を演じている。

レーシングドライバーでは土屋圭市との交流が深く、星野一義高橋国光とも人脈を持つ。特に土屋圭市にとって稲田はアマチュア時代からの師匠の一人とも言うべき間柄で、土屋によると青年時代に東京に来た際、寝る場所もなかったということから、雑誌Optionを編集していた稲田の事務所で寝泊りさせてもらったというエピソードがあるとのこと。また自身が出演した「ザ・峠」が暴走行為を助長するとして発禁処分になった際、日本自動車連盟(JAF)からライセンスを剥奪処分されると検討された時に、真っ先に弁護してくれたのは稲田であったという。

チューニング関係ではRE雨宮トップシークレット永田に加え、ヤシオファクトリー岡村や風間オートサービスと仲が良いことで知られ、ヤシオファクトリーには自身の車の修理やチューニングを任せることも多かった。

ちなみに、かつてのD1ストリートリーガル参戦車両であるストリームZ GT Jr.は千葉のトップシークレットが製作、海外でのシルバーステーツ最高速チャレンジ車両ストリームZはJUNオートメカニックが勤めた。

年齢による体力、判断力の低下のため、2006年9月のシルバーステイツを最後に公道最高速企画を休止していたが、その後チューニング活性化のため、トヨタFT86&スバルBRZの最高速を復活させ、この軽量小型クラスでも320キロに届こうという記録を更新中である。

ドリフトシーンでは、2011年から土屋と共に新たに立ち上げたドリフトを日本発進の競技にするための『ドリフトマッスル』で自ら審査員を務めたが、現在ではドリフトがFIA公認のモータースポーツとなり、所期の目的を果たしたため、稲田は身を引き、本来のチューニングカーの発展育成の活動に専念している。


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