稲村の火
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稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年嘉永7年/安政元年)の安政南海地震による津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている[1]

もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である[2]
物語の概要「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられたの束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。
ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。

村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付く。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るう。五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた。
物語の成立と普及
小泉八雲「A Living God」広川町役場前の「稲むらの火広場」にある浜口梧陵の銅像

1896年(明治29年)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英語によって "A Living God " を著した。西洋と日本との「」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した[1]

小泉八雲は作中にも触れられている明治三陸地震津波の情報を聞き、この作品を記したと推測されている。ただし地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多い[1]。また「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず神社が建てられた」とする点は誤りである。
中井常蔵「稲むらの火」

広村の隣町である湯浅町出身で、濱口儀兵衛らが創設した耐久中学校の卒業生である中井常蔵(なかい つねぞう、1907年(明治40年)12月12日 - 1994年(平成6年)1月24日)[3]は、和歌山県師範学校在学中、英語テキストで小泉八雲の「A Living God」を読み、感銘を受けた[1]

1934年(昭和9年)に文部省による国語教科書の教材公募(当時は国定教科書)が行われた。当時は南部町(現在の日高郡みなべ町)の南部小学校で訓導を務めていた[3]中井は、"A Living God " を児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募した。中井の作品では、具体的な年代や場所などの記述が省かれ、普遍的な物語として構成されている。この作品はそのまま国語教材として採用され、1937年(昭和12年)から1947年(昭和22年)まで「稲むらの火」と題されて掲載された。

中井は1945年、終戦を機に日高郡切目小学校長を最後として教職を退き、酒販店の経営にあたるとともに、南部町町会議員などの公職を務めた[3]1987年(昭和62年)9月には、国土庁から防災功績者表彰を受けている[3]
国語教材としての「稲むらの火」

「稲むらの火」は、1937年(昭和12年)刊行の尋常小学校5年生用の国語教科書「小学国語読本巻十」(第4期国定教科書サクラ読本)に掲載された。続く第5期国定教科書(アサヒ読本)の「初等科国語六」にも引き続き掲載され、1947年(昭和22年)まで用いられた。

地震学者の今村明恒は、1940年(昭和15年)に『『稲むらの火』の教え方について』を著している[4]

2011年(平成23年)度より利用される光村図書出版の小学5年生用教科書『国語 五 銀河』には、「百年後のふるさとを守る」のタイトルで、防災学者の河田惠昭が書いた浜口儀兵衛の伝記が掲載された。「百年後のふるさとを守る」では、「稲むらの火」の一部採録を行うとともに、そのモデルとなった浜口儀兵衛の事績を紹介し、津波後の復興事業も含めて描いている。これを「稲むらの火の64年ぶりの復活」として紹介するメディアもあった[5]
史実との異同詳細は「濱口梧陵」を参照

「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分がある。これは小泉八雲の誤解にもとづくものであり、翻訳・再話をおこなった地元出身の中井常蔵もあえて踏襲した。史実と物語の違いは国定教科書採用時にも認識されていたが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、八雲・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先された[4]

物語では地震動について「今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかった」と書かれているが、濱口梧陵は地震の様子を手記の中で「其激烈なる事前日の比に非ず。


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