この項目では、歌手について説明しています。同名のアルバムについては「稲垣潤一 (アルバム)」をご覧ください。
稲垣 潤一
出生名稲垣 潤一
生誕 (1953-07-09) 1953年7月9日(70歳)
出身地宮城県仙台市宮城野区
学歴宮城県工業高等学校卒業
ジャンルJ-POP
AOR
シティ・ポップ
職業ミュージシャン
担当楽器ボーカル
ドラムス
活動期間1982年 -
レーベル
東芝EMI(1982年 - 1983年)
ファンハウス(1984 - 1995年)
BMGビクター→BMGジャパン(1995年 - 1997年)
テイチクエンタテインメント(1998年 - 2006年)
ユニバーサルミュージック(2007年 - )
公式サイト稲垣潤一 Official Site
稲垣 潤一(いながき じゅんいち、1953年〈昭和28年〉7月9日[1] - )は、日本の歌手、ミュージシャン。本名は同じ。宮城県仙台市宮城野区出身[2]、所属レーベルはユニバーサルミュージック。血液型はO型。身長173cm。 父親は東京都板橋区、母親は兵庫県神戸市出身である[3]。父が終戦後、満洲から妻の疎開先・宮城県加美郡宮崎村(現在の加美町)に引き揚げた。その後仙台市に移り住んだ後、潤一が誕生した[3]。仙台市立東華中学校を経て、宮城県工業高等学校を卒業した。 父が音楽好きで、ビートルズやエルトン・ジョンを好んで聴いており、60歳を過ぎて自らギターを習って曲も作るという環境で育ったため、小さい頃から音楽が好きだった[4]。最初はエレキギターのサウンドにしびれてギターに惹かれ、小学生の頃はホウキで真似したり木を削ってギターを作するがしっくりこず、中学生になり8ビートを教わってドラムを叩いたらすんなりできたことにより[4]中学でドラム・ヴォーカルを主に担当[2]、中学生時代からバンドを始め[2]、高校で初めてバンドを作りながら本格的なバンド活動を始め、仙台で「フェイセス」を結成した。その後、仙台のライブハウスや横須賀や立川の米軍キャンプ等で演奏を続けるうち[2]、その歌声の良さに仙台の店でスカウトされる。 デビュー前にCMソングを歌い、「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで1982年1月21日に東芝EMIよりシングル「雨のリグレット」でデビューした。3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」で自身初のTOP10入りを果たす。1986年から1989年にかけてオリジナル・アルバムが4作連続1位を獲得した。1992年に発売した「クリスマスキャロルの頃には」は170万枚を売上、クリスマスソングの定番として親しまれている。 元々はドラマーであり、ドラムを演奏しながら歌うことがライブやテレビ出演で見られる。ドラムはTAMAとエンドースメント契約を結んでいる。 自ら手掛けた作詞・作曲作品もあるが、そのレパートリーは他の有名な作詞・作曲家提供による楽曲がほとんどである。シンガー・ソングライター全盛の時代に、シンガーに徹して自ら書いた曲は歌わないという姿勢を貫いた[2]。その後もシングルの表題曲は自作していない。しかし1984年には、神田正輝のシングル「マティーニの後で」のカップリング曲の作曲を担当した。 「April」(1986年、三洋電機)、「思い出のビーチクラブ」(1987年、カナダドライ・ジンジャーエール)、「セブンティ・カラーズ・ガール」(1989年初春のカネボウ化粧品)、などのCMソングも数多く、テレビドラマ主題歌や番組のエンディングテーマ等も多数手掛けている。1992年と2011年にはタイアップ曲だけを収録したアルバムを発表している。 デビュー当初は、東芝EMIと契約した。後にファンハウス(現在のアリオラジャパン)に移籍した。ファンハウス傘下前のBMGビクター・BMGジャパン傘下のair Records、テイチクエンタテインメント傘下のContinental Label・Imperial Recordsに所属した。2007年、ユニバーサルミュージック・USM JAPANに移籍した。なおair Records 時代[注 1]を除き、Imperial Records時代までの楽曲の原盤権はフジパシフィック音楽出版(現在のフジパシフィックミュージック)が管理している。2008年にUSM JAPAN・2009年にユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンからファンハウス以前のアルバムが再発された際には、フジパシフィック音楽出版のライセンシーによりリイシューされている。 映画『アイ・ラヴ・ユー』の音楽監修も務め、主題歌・挿入歌を担当した(挿入歌は、同じくテイチク所属のSALAHも担当)。 私生活では、最初の妻とは死別している。2009年(平成21年)一般人女性と再婚した。同年3月14日に内輪のみでパーティーを行い、挙式も済ませている。 2006年(平成18年)には声優・長谷川杏里のデビューシングル「フラグメンツ・ブルー」の作曲を担当した。 稲垣の地元、仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員(会員No.11)であり、2007年(平成19年)3月31日のフルキャストスタジアム開幕戦(日本ハム戦)で国歌独唱を行った。 2013年にはSUPER GTのGT300クラスのGREEN TEC RACING TEAMの監督に就任した。自身も公式ライセンスを取得しており、かつてはトヨタ・アルテッツァのワンメイクレース「ネッツカップ・アルテッツァワンメイクシリーズ」等に参戦するなど、モータースポーツへの造詣が深い[5]。 CD化されているのは、「オーシャン・ブルー」以降の作品。 #発売日タイトルカップリング最高位備考
来歴・人物
ディスコグラフィ
シングル
11982年1月21日雨のリグレット日暮山65位
21982年7月21日246:3AMジンで朝まで
31982年10月21日ドラマティック・レイン蒼い追憶8位横浜ゴム「アスペック」CMソング
41983年3月1日エスケイプ男と女19位