種茂 雅之立教大学時代(1956年)
基本情報
国籍 日本
出身地静岡県磐田市
生年月日 (1938-02-13) 1938年2月13日(86歳)
身長
体重175 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1961年
初出場1961年9月2日
最終出場1974年9月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
静岡県立静岡高等学校
立教大学
丸善石油
東映フライヤーズ (1961 - 1971)
阪急ブレーブス (1972 - 1975)
監督・コーチ歴
阪急ブレーブス (1975 - 1977)
日本ハムファイターズ (1981 - 1988, 1993 - 1995)
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
種茂 雅之(たねも まさゆき、1938年2月13日 - )は、静岡県磐田市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。
パ・リーグ初の捕手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[1]。 洋服店を営んでいた父親がズックの切れ端でグローブを作ってくれたことがきっかけで、小学4年の時に野球を始める[2] [3]。当初は投手であったが、中学時代(磐田一中)に捕手へ転向[3]。3年次の1952年の県大会で準優勝した活躍ぶりを買われ、10月に静岡市内の中学校に転校[3]。 進学校・静岡高では1年次の1953年から正捕手を務め、3年次の1955年には主将として夏の甲子園静岡大会に臨み、第8シードながら準決勝で前年全国準優勝の静岡商、決勝で沼津東高を撃破して山静大会も勝ち抜いた[3]。本大会では開幕試合の1回戦で城東高と当たったが、3-0で1安打完封負けを喫す[3]。1年上のチームメイトに近藤晴彦がいた。 高校卒業後は1956年に立教大学へ進学し、杉浦忠・本屋敷錦吾・長嶋茂雄・稲川誠の2学年下で入部。東京六大学リーグでは3年次の1958年秋季まで片岡宏雄の控え捕手を務め、2年次の1957年春季から1958年秋季にかけての4連覇と、全日本大学選手権2連覇を経験。4年次の1959年春季から正捕手を務め、自身初のベストナインを受賞。リーグ通算29試合出場、93打数18安打、打率.194、1本塁打。同期には森滝義巳、浜中祥和、高林恒夫がいる。 通算打率は1割台と打撃は低調なものの、持ち前の高い守備力でプロも注目し始めるが、大学卒業後の1960年に丸善石油へ入社。岡田悦哉監督の指導を受け、西三雄・岩上江笠とバッテリーを組む。1年目の同年から4番・捕手として起用されて都市対抗に出場するが、2回戦で富士重工業を相手に2安打を放つも敗退[4]。同年9月には全日本社会人野球選抜チームの一員としてハワイに遠征[4]し、2年目の1961年は東邦レーヨン徳島の補強選手として都市対抗に出場[4]。 1961年8月の都市対抗終了後に東映フライヤーズへ入団し、同年9月23日の近鉄戦(日生)に安藤順三の代打で初出場。 1年目こそ途中加入ということもあって1試合のみの出場に終わったが、2年目の1962年から頭角を表す。4月15日の西鉄戦(後楽園)で若生忠男から初安打、井上善夫から右前適時打を放って初打点を記録。連勝が6で止まった翌日の試合で途中出場ながら2打数2安打1打点をマークし、リードでは土橋正幸の2試合連続完投での3連勝を途中からアシスト。同16日は2打数1安打、宮原務本の代打から出場した同17日の阪急戦(後楽園)は1打数1安打1打点で3連勝し、17日は安藤元博の完投2連勝を途中からアシスト。同18日には8番・捕手で初めて先発マスクを被り、その後も安藤との併用ながら出場機会を増やしていく。土橋・富永格郎・久保田治・尾崎行雄・安藤元ら投手陣を好リードで支え、球団史上初のリーグ優勝に貢献。阪神との日本シリーズでは10月16日の第3戦(神宮)から安藤に代わって先発マスクを被ったが、引き分けに終わった[3]。翌17日の第4戦(神宮)からは攻撃面でチームを助け、小山正明から逆転2点適時打を放つ。翌18日の第5戦(後楽園)では村山実・石川緑から3打数2安打、20日の第6戦(甲子園)でも村山から逆転2点適時打を放つなど4連勝の立役者になった[3]。思い切ったリードで投手の力を引き出しながら打っても殊勲打を放ち[5]、5試合で14打数5安打とシーズン時以上に打棒が爆発してチーム2位の打率.357をマーク[3]。要所で6打点を記録して日本一に貢献し、胴上げ投手となった土橋と共に史上唯一のダブルMVPを受賞、捕手が日本シリーズMVPを受賞したのも史上初であった[6]。
経歴
プロ入りまで
現役時代