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五重相対(ごじゅう・の・そうたい)とは、日蓮が立てた教判の一つ。『開目抄』で説かれる。一切の思想や宗教を比較・検討し、その高低・浅深・勝劣を判定する理論。 日蓮は、釈迦一代の教説はもちろん、世間にあるすべての思想や宗教を比較検討し、教理の高低・浅深・勝劣を比較し、優れたものを段階的に五重に選択した。五重とは、内外・大小・実権・本迹・教観(あるいは種脱)のことである。その上で、『法華経』如来寿量品に顕したとする、事(じ)の一念三千である妙法五字が末法の究極の教法であるとする。その根底となる考えは、この世に生きているすべて人たちが成仏できるかというのということである。 内外相対とは、内道(仏教)と、外道(中国の儒教・道教などやインドの宗教やキリスト教等の仏教以外の教説)とを比較相対して、その勝劣相対を示したもの。 この考え方は、人間の内面の在り方に視点を置き教義を説く内道の仏教が優れていることを明かすものである。特に、過去・現在・未来の三世の因縁果を説くかが最大の違いである。三世の因縁果を説く意味合いは、親が存在し、自分自身が存在し、先祖が存在し、また子供等の存在に繋がるという生命の連綿性を見出すことでもある。 仏教以外の教説は、いずれも三世の因果を無視あるいは部分的な浅い因果しか説かないが、内道の仏教は、過去・現在・未来の三世を明らかにし、それは過去世の時代に何らかの「原因」の種が蒔かれており、現世において生じた各種事象(「結果」)が導かれるという考え方で、真の因果の道理を説いている。 例えば、儒教・道教は、その視点は現世だけにあり、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説かない。インドのバラモン教などでは、三世の因果を説くものもあるが、運命の変革の可能性を説かない。ヒンズー教のカースト制はその例と言える。キリスト教も古い教説では因果の概念を有していたようであるが、今はその片鱗も見受けられない。さまざまな因果説が存在するが、釈迦の教説のような三世の因果を説かない。 それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性があることを洞察し、今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説く。 仏教には「大乗教」と「小乗教」の区別があり、これを比較相対することを大小相対と言う。 大乗教とは大きな乗りものを、小乗教とは小さな乗りものを意味する。これについて日蓮は、 「小乗教と申す経は世間の小船のごとく、わずかに人の二人三人等は乗すれども百千人は乗せず。設(たと)ひ二人三人等は乗すれども、此岸(しがん)につ けて彼岸へは行きがたし。又すこしの物を入るれども、大なる物をば入れがたし。大乗と申すは大船なり」(乙御前御消息 新編895) と述べられ、成仏という目的地まで大勢の人を安全に連れていくには、その乗りものが大きく完全なものでなければならないことを説いている。 小乗教は、釈迦が初期の阿含時において、自己の救済のみを求める声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)等のために説いた自己の利益を中心に置く教説であり、一切衆生を成仏させるという仏教本来の目的からは遊離してう。(現在、小乗と呼ばず、上座部と呼ぶ。それは、教団内の指導的な長老が「上座」に座ることからの命名である。) これに対して大乗教は、釈迦が、悩みを抱える多くの民の悩みに答えてきた、華厳・方等・般若時の教説であり(この時は悩みをお聞きしそれに答えた時期)、特に釈迦が72歳での自らの教説を再考し開眼した後に教説を説いた法華時(法華経)を通じて(この時期は、釈迦自らが民に説いた時期)、多くの人々の救済を願う菩薩のために説いた教説であり、人間は「賢くあり、他へは優しくあれ」という教説で、この世のあらゆる人々の救済を説くものであり、小乗教には説かれていない深遠な法理が明かされている。 大乗教の教説が、この世のもの全て(人間のみではなく、動物・植物等生命・形あるもの全て)に視点を置き、この世のあらゆるものとの繋がりを大事にし、この世に生きる人間全ての救済を目的としていることから、小乗教より大乗教が勝れているとされる所以である。
概要
内外相対(ないげそうたい)
内とは、内道(ないどう)のこと。仏教のことをいう。過去・現在・未来の三世にわたる因果の理法を説く。
外とは、外道(げどう)のこと。仏教以外の教説のことをいう。因果の理法を説かない。
大小相対 (だいしょうそうたい)
大とは「大乗」のことで、大きな乗りもののこと。
小とは「小乗」のことで、小さな乗りもののこと。
権実相対 (ごんじつそうたい)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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