種痘
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二又針を使った種痘の接種
もはや天然痘ウイルス自体は含まれていない左肩前部と左上腕中央より下部に計2回の種痘接種を受けて終生残る直径2cm以上の瘢痕(9個規則的に並ぶものはBCG接種の瘢痕)。下部の跡は1歳時の接種痕で肩前部の跡は6歳時の接種痕である。1948年以降、日本では右肩付近に接種するのが一般的だったが、このように、左上腕の下部に接種された例もごく稀に見かける(写真は1969年生まれの女性の左腕に見られるもので予防接種の跡が全て左腕?肩に集中している)。日本は1975年度生まれ迄が種痘を受けた世代である。

種痘(しゅとう)とは、天然痘予防接種のことである。ワクチン内に接種する。今日ではY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する手法が一般的である。1980年天然痘ウイルスは撲滅され、自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では実施されていない。
ワクチン

古くから西アジア中国では、天然痘患者のを健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていた。中国代の乾隆帝時代刊行された『医宗金鑑』(1742年)に様々な人痘法が記されており、これが長崎へ伝わり、秋月藩医緒方春朔による人痘法の実践(後述)につながった[1]。だが数%の重症化する例もあり、安全性は充分でなかった。1796年イングランドの医師エドワード・ジェンナーは、ウシが飼育されている家や地域では牛痘にかかると天然痘にならないという伝聞に着目した。これの膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。

「Vaccinia virus、ワクチニアウイルス(ワクシニアウイルス)」と呼ばれ、ラテン語のVacca(ワッカ = 雌牛)が名の由来であり、ワクチン(vaccine)、ワクチン接種(vaccination)の語源になっている[2]

しかし、のちの研究で牛痘ウイルスと天然痘ウイルスには免疫交差の作用がないことが判明した。実際には牛痘の膿に混じっていた別のウイルスによるものであり、したがってジェンナーが天然痘ワクチンを生み出せたのは偶然によるものだった。由来については長年不明だった。しかし、1902年の天然痘ワクチン試料のDNA分析によって、馬痘ウイルス (horsepox virus) と99.7%類似していることが示され、馬痘ウイルスもしくはその近縁種であったことが判明している[3]。ワクチニアウイルス研究の第一人者であるデリック・バックスビー(Derrick Baxby)は、馬痘ウイルス由来を支持し、馬痘ウイルスに感染し馬の踵の部分にできる炎症で脂肪の「馬のグリース」が由来だとした。馬のグリースに接触し感染した人に免疫ができていることを、実際に天然痘を接種し証明した。しかし、馬痘ウイルスが馬を自然宿主としているのか、他の動物から馬に感染したのかは未だに不明である[4]
日本への伝来と普及

日本では江戸時代後期の1789年、長崎で医術を学んだ秋月藩医の緒方春朔が大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法で接種して成功させた。これはジェンナーが考案した牛痘を用いる方法ではなく、天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末にして鼻孔に吹き入れる方法に、緒方自身が改良を加えたものだった[5]1810年にはロシアに拉致された中川五郎治が、帰国後に牛痘を用いた種痘法を伝えた。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃、蝦夷地(現在の北海道)では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は江戸幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。

その後、種痘の技術は箱館(現在の北海道函館市)の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達された。これとは別に1813年に同じくロシアから帰国した安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、種痘苗をガラスの器に入れて持ち帰った。彼は、その効果を広島藩や藩主の浅野斉賢に進言しているが一笑され、接種に至らなかった。

また、1831年には柴田方庵が長崎で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門人たちやオランダ軍医オットー・モーニッケに最新の西洋医学を学び、各地に広めた。
牛痘苗の輸入

1823年に長崎出島にやって来たオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後にオランダ領東インド(現在のインドネシア)のバタヴィアから持参した牛痘苗を用いて種痘を行ったが、成功しなかった。彼は翌年には鳴滝塾を開き、日本中から集まる医師たちに西洋医学を教授する。1826年の江戸参府の際には、再度輸入した痘苗を用いて種痘術を実演し、種痘の知識や具体的な手順を伝えたが、この際も痘苗が活着することはなかった[6]

天保9年(1838年)から天保13年(1842年)にかけて紀伊国和歌山県熊野地方で天然痘が猛威を振るった。これを目の当たりにした紀州出身の京の医者小山肆成は、家宝の刀などの家財を売り払って実験用の牛を購入し、妻を実験台にして牛痘による種痘法の研究に没頭した。小山は弘化4年(1847年)に牛痘法の書『引痘略』を、さらに『引痘新法全書』を著した。

福井藩福井県)の町医者笠原良策は、その前年の弘化3年(1846年)、藩に対し牛痘苗を海外から入手する請願書を出したが、不採用となっていた。嘉永元年(1848年)12月に再度請願書を出し、書中にて従来のようなオランダ船経由では痘苗が活着しないため、清国からの取寄せを進言した。藩主松平春嶽はこれを受け入れ幕府に請願した。老中阿部正弘長崎奉行大屋明啓にこれを伝達した[7]

長崎奉行の大屋からからオランダ商館に要望が伝達され[要出典]、嘉永元年のオランダ商館医オットー・モーニッケの来日赴任の際にモーニッケが牛痘を持参したが、これは上手くいかず、翌年に再度バタヴィアから取り寄せた。

一方、シーボルトの門人で鳴滝塾に学び、当時佐賀藩医であった伊東玄朴も痘苗の入手を藩に進言した。佐賀藩もまた出島のオランダ商館にこれを依頼していた。佐賀藩では1846年、藩医の牧春堂が上記の同名の『引痘新法全書』で牛痘の効果を説いていた[8]

嘉永2年(1849年)6月、バタヴィアから長崎に再度もたらされた牛痘苗を用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建やオランダ通詞らの息子たち計3人に種痘が施され、その一人が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、6か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播した[9]。京都の日野鼎哉と桐山元中から依頼を受けていた長崎の唐通詞頴川四郎八は、自分の孫に種痘を施した。そこから得られた痘痂8粒を瓶に納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、同月16日に日野の手に届いた。これを日野は自分の孫に試すが上手く行かず、最後の一粒を桐山の息子に接種したところ、これは上手く行った[要出典]。これを元に同年10月、笠原良策と日野鼎哉が京都に「除痘館」を開設した[10]。京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都を訪ねるが、前出の経緯により痘苗は「福井藩の所有物」であったため、医師個人の権限での安易なやり取りには問題があったが、日野や笠原らと緒方は話し合い、当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗を途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互のバックアップとする、という大義名分を考え出した[要出典]。これにより笠原・日野・緒方は6日に大坂に赴き、翌日の7日に「除痘館」を開設した。

佐賀藩では、8月には藩医楢林宗建が痘母となる子供をつれて佐賀に到着し、藩医の子らに接種した。佐賀藩は幕府から長崎警備を命じられていて西洋の情報収集や西洋医学の習得に熱心で、楢林宗建も長崎詰であった[8]


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