種村直樹
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種村 直樹
誕生1936年3月7日
滋賀県大津市
死没 (2014-11-06) 2014年11月6日(78歳没)
東京都板橋区
職業作家随筆家評論家
最終学歴京都大学法学部
活動期間1973年 - 2014年
ジャンルルポ
主題鉄道
配偶者あり
公式サイト ⇒種村直樹公式ホームページ
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種村 直樹(たねむら なおき、1936年3月7日 - 2014年11月6日)は、日本作家随筆家評論家滋賀県大津市出身[1]

もとは毎日新聞社記者だったが、1973年鉄道に関連する記事執筆を専業とするフリーのライターとなり[1]、レイルウェイ・ライターと称して鉄道に関するルポルタージュ、時事評論紀行文推理小説などを数多く発表した。
略歴

滋賀県立大津東高等学校(現在の滋賀県立膳所高等学校)、京都大学法学部卒業[1]

毎日新聞社の国鉄担当記者であった1972年に、その豊富な鉄道知識と新聞記者としての取材、執筆能力から、当時の『鉄道ジャーナル』編集長の竹島紀元に抜擢され[2]、「列車追跡」など同誌のメインとなる特集記事を執筆するようになったほか、連載コラムも持つようになる。フリーとして独立後は、「社会派」を標榜する『鉄道ジャーナル』に、東北新幹線青函トンネルの開業、日本国有鉄道の終焉とJRの発足や、瀬戸大橋青函トンネルの建設といった、時代の節目となった出来事のルポを多数執筆。その時代の鉄道の記録を残している。

国鉄の労使双方に交友関係を持ち、特異な記事を執筆していたという評価もある[3]国鉄分割民営化をめぐっては、基本的に反対の姿勢を取り、国鉄労働組合に好意的な態度を取った。一方で経営側を批判するよりも、国鉄による自主再建を期待する発言をしていた。こうした種村の態度は「公平」という評価がある一方、分割民営化賛成・反対論者の双方からの批判もあった。

乗車券などの規則に詳しく、また、鉄道の旅を単なる手段ではなく、鉄道旅行自体をさまざまな手法で楽しむことができるということを広めるなど、鉄道ファンや鉄道旅行愛好者向けの著作も多く、その守備範囲は鉄道に関する広い分野に及んだ。

2000年にはクモ膜下出血を発病し入院したが[4]、退院後の体調は順調に回復していた。入院の際に不摂生だった生活を改善し、「ヤニーズ」を標榜するほどのヘビースモーカーだったが退院後は禁煙し、旅行先から病院に電話して検査結果を問い合わせるほど健康に気を遣うようになった。だがクモ膜下出血の後遺症も災いし、退院後の文章は精彩を欠いていることを『鉄道ジャーナル』の「レイルウェイ・レビュー」で認めている。体力的な都合もあって同誌でのハードな取材はなくなり、「○○の駅百選」に選ばれた駅や民鉄などのローカル線を訪問するなど、ゆとりのある旅の記事が中心となっていた。

『鉄道ジャーナル』誌2006年3月号において、1973年7月号から続いていた「鉄道記事ざっくばらん」欄の執筆者(曲)が種村であることを公表した。またこの欄は2006年1月号以降、以前から記名(これも連載開始当初は(直)としていた)となっていた「レイルウェイ・レビュー」欄および「DIARY」欄とともに見開き2ページにまとめ、「Railway Writer's COLUMN」とされた。しかし、『鉄道ジャーナル』誌におけるこれら3編の連載も2006年7月号(通巻477号)をもって休載(事実上の終了)となった。最後の「レイルウェイ・レビュー」は「『レビュー』33年395回の終局?日本の鉄道の変容を見つめて?」とのタイトルで締めくくっているが、同誌の最後では不本意な休載に未練を残している。それ以外の記事執筆は継続したが、『鉄道ジャーナル』誌での掲載は同年10月号をもって終了し、以後は2007年9月発売分から月刊誌に移行した『旅と鉄道』誌に掲載されることになった。

『鉄道ジャーナル』誌での連載コラム終了から1ヶ月後の2006年6月に発売された『旅と鉄道』誌の2006年夏号で、1976年から長期連載していた「種村直樹の汽車旅相談室」も終了した。文末には不本意な「打ち切り」であることを告白しているが、一方で文章に対する批判があることも承知しており、文面では「モノ書き」にとって仕事を奪われたことの悔しさを滲ませている[5]。「日本列島外周気まぐれ列車」については継続掲載する予定であったが、『旅と鉄道』誌が2009年2月号をもって休刊することが決定したため、こちらも同誌での掲載は完結せずに終了することになった[6]

2014年11月6日、転移性肺がんにより東京都板橋区の病院で死去[7]。78歳没。
主な活動と評価
気まぐれ列車と汽車旅

特に鉄道に乗り、気が向いた駅で降り、降りた駅の周辺を歩き、温泉や無名な旧跡を回り、再び鉄道へ乗るという「気まぐれ列車」と種村が呼んでいる旅の手法は、古来、鉄道旅行愛好者の間で行われていた旅の手法を種村が活字化し、紹介したものである。

第三次鉄道ブームの到来とともに、鉄道による旅行が見直されたが、その際、このような旅の手法が汽車旅という名前でさまざまな媒体から提示され、ムックが多数発行されるようになった。
汽車旅ゲーム

加えて、「汽車旅ゲーム」と種村が呼んでいる旅のスタイルがある。テーマを決めて、何日間も車中泊で列車を乗り継ぎ、日本を縦断する「乗り継ぎ旅」やルールを決めて駅や郵便局、温泉などを巡る「ラリー旅」はその一例である。種村は国鉄時代末期に鉄道線・連絡船バス線を組み合わせた「最長片道切符の旅」を挙行しているが、これも「汽車旅ゲーム」の延長から発想されたものである[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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