稚野毛二派皇子
(若沼毛二俣王/若野毛二俣王)
配偶者紀:記載なし
記:百師木伊呂弁
上宮記:母々恩己麻和加中比売
子女紀:忍坂大中姫命
記:意富富杼王ら7子
上宮記:大郎子ら4子
父親応神天皇
母親紀:弟姫
記:息長真若中比売
上宮記:弟比売麻和加
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稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ[1]/わかぬけふたまたのおうじ[2])は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
『日本書紀』では「稚野毛二派皇子」のほか「稚渟毛二岐皇子」、『古事記』では「若沼毛二俣王」・「若野毛二俣王」、他文献では「稚渟毛二俣王」・「稚渟毛二派王」・「稚沼毛二俣命」などとも表記される。
『日本書紀』『古事記』とも事績の記載はない。
第15代応神天皇の第五皇子。第16代仁徳天皇の弟、第20代安康天皇と第21代雄略天皇の外祖父(母方の祖父)、さらに第26代継体天皇の高祖父とされる人物である。
今日の皇室は、稚野毛二派皇子の男系子孫にあたる。
息長との関係 [ソースを編集]
『古事記』景行記の伝えるところによれば、倭建命の一妻の生める子が息長田別王
、その子が?俣長日子王、その子が飯野真黒比売命、息長真若中比売、弟比売であるという。二俣王の母は『古事記』では中比売、『上宮記』逸文では弟比売となっており、二俣王の妻はそれぞれ弟比売、中比売と逆になっているが、いずれにせよ、二俣王もその子女も息長の地と関係が深いことがわかる[3]。『日本書紀』に基づく関係系図
15 応神天皇
稚野毛二派皇子
19 允恭天皇 忍坂大中姫命
木梨軽皇子20 安康天皇21 雄略天皇
『日本書紀』応神天皇紀[原 1]では稚野毛二派皇子(稚渟毛二岐皇子)の出自について、第15代応神天皇と、河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘で妃の弟姫(おとひめ)との間に生まれた皇子とする[4][5][1]。同母兄弟の記載はない。
子に関して、允恭天皇紀・安康天皇紀[原 2]では、娘の忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと、母は不明)が允恭天皇(第19代)の妃となり、木梨軽皇子・穴穂天皇(第20代安康天皇)・大泊瀬稚武天皇(第21代雄略天皇)らを産んだとする[6][7]。
古事記[ソースを編集]
『古事記』応神天皇段[原 3]では若沼毛二俣王(若野毛二俣王)の出自について、応神天皇と、咋俣長日子王(くいまたながひこのみこ、杙俣長日子王)の娘の息長真若中比売との間に生まれた皇子とする[8][9][1]。同母兄弟の記載はない。
子に関しては、息長真若中比売の妹の百師木伊呂弁(またの名を弟日売真若比売命)を娶り、次の7子をもうけたとする[10]。
大郎子(またの名を意富富杼王) - 三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君等の祖。
忍坂之大中津比売命 - 允恭天皇の妃、木梨之軽王・穴穂命(安康天皇)・大長谷命(雄略天皇)らの母。
田井之中比売
田宮之中比売
藤原之琴節郎女
取売王
沙禰王
上宮記[ソースを編集]
『上宮記』逸文に
基づく系図[原 4]
凡牟都和希王
(15 応神天皇)
若野毛二俣王
大郎子
(意富富等王)
乎非王
汗斯王
(彦主人王)
乎富等大公王
(26 継体天皇)
『釈日本紀』所引『上宮記』逸文[原 4]では若野毛二俣王の出自について、凡牟都和希王(応神天皇)と、?俣那加都比古の娘の弟比売麻和加との間に生まれた皇子とする[1]。