稗田 阿礼
生誕不祥
死没不詳
職業舎人
活動期間7世紀後半から8世紀初頭
雇用者天武天皇
著名な実績『古事記』編纂
影響を受けたもの『帝紀』『旧辞』
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稗田 阿礼 (ひえだ の あれ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての官人。『古事記』の編纂者の1人として知られる。 稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。同時代の『日本書紀』にも、この時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだ。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} 時有舎人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。(『古事記』序) 訳: 『斎部氏家牒 通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。平田篤胤は『古史徴開題記』の中で「阿礼は実に天宇受売命之裔にて、女舎人なると所思たり。」と述べている[1]。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏は天鈿女命を始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で(ただし、『政事要略』には「右少史猿女副雄」という男性の官人が見える[2])、「アレ」は巫女の呼称である、ということ、がある。例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命
概要
そのとき、一人の舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目にしたものは即座に言葉にすることができ、耳にしたものは心に留めて忘れることはなかった。すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。
異説
ただし、『造伊勢二所太神宮宝基本記』には「伊己呂比命男、大貫連大阿礼命」と記されており、「阿礼」はそのまま巫女のみを表す言葉ではない[2]。
『新撰姓氏録』に「阿礼首」という氏族が存在することから、稗田阿礼の名前は、阿礼首、あるいは大伯皇女や高田新家、忍海大国のように、地名を由来とする説も存在する[2]。
また『古事記』には、『日本書紀』と比べ、女神や巫女的存在の神を重要なものとして登場させている箇所があることも、女性説を裏付けるとの意見もある。(例として、伊邪那岐命の禊祓の際、男性である命の身につけているものの中に、婦人がつける「裳」が入れられていること。古事記オリジナルの神に伊豆能売(厳媛)という巫女的役割を持つ神がいて、しかもそのエピソードが神出現の場面(禍津日神)に登場していること、また天照大神と須佐之男命の誓いの際に、『古事記』では『日本書紀』とは反対に、女神の出現によって勝のしるしとすること。)
梅原猛は、『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている[3]。