程ヶ谷カントリー倶楽部
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程ヶ谷カントリー倶楽部
Hodogaya Country Club
程ヶ谷カントリー?楽部の空中写真。
2019年6月撮影の2枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
所在地 日本
神奈川県横浜市旭区上川井町1324番地
座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度29分19.98秒 東経139度30分9.66秒 / 北緯35.4888833度 東経139.5026833度 / 35.4888833; 139.5026833
概要
開業1922年大正11年)10月15日
運営メンバーシップコース
設計赤星 四郎
運営者程ヶ谷カントリークラブ株式会社
公益社団法人程ヶ谷基金
任意団体程ヶ谷カントリークラブ
トーナメント・1927年 第1回 日本オープンゴルフ選手権競技大会
・1931年 第5回 日本オープンゴルフ選手権競技大会
・1941年 第14回 日本オープンゴルフ選手権競技大会
・1957年 第25回 日本プロゴルフ選手権大会
コース

OUT CourseIN Course
HOLEPARYARDHOLEPARYARD
1441014444
2552624370
3315033176
4435645506
5439254436
6558664345
7434274376
8320283188
9444895544
計363412計363385



その他
公式サイト ⇒程ヶ谷カントリー倶楽部
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程ヶ谷カントリー倶楽部(ほどがやカントリーくらぶ)は、神奈川県横浜市旭区上川井町に広がるゴルフ場である。
歴史
程ヶ谷にゴルフ場開場

程ヶ谷カントリー倶楽部は、1921年大正10年)5月30日、「程ヶ谷ゴルフ株式会社」を設立。ゴルフ場用地は、神奈川県横浜市郊外の保土ケ谷区常盤台(現、横浜国立大学キャンパス内)で、3万坪のまとまった土地を買収し、借地5万7千坪で計画された。程ヶ谷ゴルフ株式会社が、ゴルフ場の施設を造り、程ヶ谷カントリー倶楽部に無償で貸与した。1922年(大正11年)2月24日、「程ヶ谷カントリー倶楽部」を創立、コース設計は、米国のスコーキーGCのプロ・W・フォバーグに依頼、同年10月15日、9ホールが開場した。「東京ゴルフ倶楽部駒沢コース」開場8年後のことである。その翌年、1923年(大正12年)4月22日、9ホールが増設され、18ホール、6,109ヤード、パー69のコースが開場した[1]
関東大震災と太平洋戦争

開場間もない、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生、復旧のため、1924年(大正13年)1月から4月の間、ゴルフ場を閉鎖した。1927年(昭和2年)5月28日(予選)29日(決勝)の日程で、第1回 日本オープンゴルフ選手権競技大会が開催され、赤星六郎が優勝した[2]1935年昭和10年)、赤星四郎の設計により18ホール、6,500ヤード、パー72に改造された。その後、1941年(昭和16年)7月12日、原因不明の出火によりクラブハウスが全焼した。同年12月8日、太平洋戦争に突入していたが、翌年の1942年(昭和17年)3月、工事費約2万6千円、渡辺仁の設計により新たなクラブハウス(延べ面積208坪)が竣工した[3]
戦争によりコース閉鎖

戦争が始まり、他のゴルフ倶楽部は、軍による強制徴用を受けていた。1941年(昭和16年)4月、「東京ゴルフ倶楽部朝霞コース」は陸軍戦車隊用地として、「武蔵野カンツリー倶楽部六実コース」と「武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース」は陸軍飛行隊に、1942年(昭和17年)には「川奈ホテルゴルフコース」、「那須ゴルフ倶楽部」も戦傷者の療養施設として徴用された。程ヶ谷カントリー倶楽部は徴用はされなかったが、最も近い「藤沢カントリー倶楽部(神奈川県、1931年-1943年、C・H・アリソン、赤星四郎)」が海軍に徴用された。程ヶ谷カントリー倶楽部では、1941年(昭和16年)から、農作部を設け、馬鈴薯や野菜などを栽培した。接収された朝霞コース、六実コース、藤ヶ谷コース、藤沢カントリー倶楽部などのコースは、戦後、復興することはなかった。1944年(昭和19年)2月、インコースが閉鎖され、海軍の飛行場のために供出された。1945年(昭和20年)に入ると、戦局は悪化し、コースの維持が不可能となり、同年4月15日、コースを閉鎖することになった[3]
米第8軍に接収される

東京では、1945年(昭和20年)3月9日以来、B29の爆撃を受け、4月15日の夜、約200機のB29爆撃機空母からの延べ数百機の爆撃機による大空襲を受け、東京は焼け野原となった。国防上事態は深刻であると、海軍の指示で三菱重工横浜ドックから、機材や資材の置場と諸施設の借受の要請を受けた。この年、横浜ドックの使役していた米豪の捕虜200人が、食料増産の農耕に従事していた。また、1番、4番、5番、7番ホールの斜面を利用して、地下家屋が朝鮮人労働者によって構築された。1945年(昭和20年)8月15日、終戦となり、翌月の9月20日、神奈川県渉外事務局からクラブハウスの明け渡しの指令があった。その1週間後、米軍軍隊が野砲4門を18番グリーン付近に据え付け、同年暮れ、米第8軍の将校倶楽部として接収された。クラブハウスは模様替えされ、ダンスホールやステージが造られ、米軍将校の家族が連日饗宴していた[3]
終戦でもコース使えず

コースの復旧が進められ、1946年(昭和21年)5月、アウトコース9ホールを開場、同年11月、インコース9ホールを開場した。コース整備は、調達庁が安達建設に行わせたが、良い芝が手に入らず、富士山麓や秋田県から野芝を取り寄せた。倶楽部は米第8軍に接収されていたが、従業員や復員した浅見緑蔵、中村寅吉、島田二郎、山口三郎らのプロも米第8軍に雇用された。コースの所有者だが、コースでプレーするのは米軍関係者だけである。1946年(昭和21年)9月、キャプテンと倶楽部役員が連名で、日本人にもコースを使わせて欲しいと要請したが、要請は米第8軍に黙殺され、実現したのは5年後の1951年(昭和26年)になってからであった[3]。米第8軍の接収中の1950年(昭和25年)2月、米軍の失火により、クラブハウスが全焼した[4]
復旧費用にと会員募集

講和条約の準備が進み、1951年(昭和26年)末頃、土日曜を除き一日20名限定で日本人会員のプレーが許されるようになった。しかし、クラブハウスは焼失したので、馬小屋のような更衣室をクラブハウスとして利用した。良かったことは、300円程でビフテキが食べられた、米軍が無税でクラブやボールを輸入しているので、米軍従業員に頼んで安く譲ってもらうことが出来た。1952年(昭和27年)4月1日、6か月間、コースを賃貸する契約を締結したが、契約はさらに6か月間延長され、1953年(昭和28年)3月末まで、日米共同使用が継続された。また、新クラブハウスの建設費、コースの諸設備の改修など多額の費用が必要なため、新たな会員を募集することにした。1951年(昭和26年)時の会員数は494名で、1952年(昭和27年)春の調査で残留会員は350名、最終会員数を850名と決定し、新会員を500名前後募集することにした[3]
新クラブハウスの建設

米第8軍占有時のコースは、相当荒れていた、将校だけでなくGI(一般兵卒)もプレーし、ゴルフを初めてプレーする連中が多く、コースは酷使され、整備も行われていなかった。コース内の樹木も減り、池も埋められていた。1952年(昭和27年)10月、クラブハウスが着工された、設計は会員の渡辺仁と高木秀寛の共同設計、施工は、鹿島建設が行った。1953年(昭和28年)3月15日、新しいクラブハウスが完成した、1階は鉄筋コンクリー造で、2階は木造の総建坪322坪、建築費は総額3千万円だった。開場式を行い、任意団体であった程ヶ谷カントリー倶楽部は改組して社団法人となった。1954年(昭和29年)から2年かけ、コース整備が行われ、野芝のフェアウエイを高麗芝で約3万5千坪を張り替えた[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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