程ヶ谷カントリー倶楽部
Hodogaya Country Club
程ヶ谷カントリー?楽部の空中写真。
2019年6月撮影の2枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
OUT CourseIN Course
HOLEPARYARDHOLEPARYARD
1441014444
2552624370
3315033176
4435645506
5439254436
6558664345
7434274376
8320283188
9444895544
計363412計363385
その他
公式サイト ⇒程ヶ谷カントリー倶楽部
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程ヶ谷カントリー倶楽部(ほどがやカントリーくらぶ)は、神奈川県横浜市旭区上川井町に広がるゴルフ場である。 程ヶ谷カントリー倶楽部は、1921年(大正10年)5月30日、「程ヶ谷ゴルフ株式会社」を設立。ゴルフ場用地は、神奈川県横浜市郊外の保土ケ谷区常盤台(現、横浜国立大学キャンパス内)で、3万坪のまとまった土地を買収し、借地5万7千坪で計画された。程ヶ谷ゴルフ株式会社が、ゴルフ場の施設を造り、程ヶ谷カントリー倶楽部に無償で貸与した。1922年(大正11年)2月24日、「程ヶ谷カントリー倶楽部」を創立、コース設計は、米国のスコーキーGCのプロ・W・フォバーグに依頼、同年10月15日、9ホールが開場した。「東京ゴルフ倶楽部駒沢コース」開場8年後のことである。その翌年、1923年(大正12年)4月22日、9ホールが増設され、18ホール、6,109ヤード、パー69のコースが開場した[1]。 開場間もない、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生、復旧のため、1924年(大正13年)1月から4月の間、ゴルフ場を閉鎖した。1927年(昭和2年)5月28日(予選)29日(決勝)の日程で、第1回 日本オープンゴルフ選手権競技大会が開催され、赤星六郎が優勝した[2]。1935年(昭和10年)、赤星四郎の設計により18ホール、6,500ヤード、パー72に改造された。その後、1941年(昭和16年)7月12日、原因不明の出火によりクラブハウスが全焼した。同年12月8日、太平洋戦争に突入していたが、翌年の1942年(昭和17年)3月、工事費約2万6千円、渡辺仁の設計により新たなクラブハウス(延べ面積208坪)が竣工した[3]。 戦争が始まり、他のゴルフ倶楽部は、軍による強制徴用を受けていた。1941年(昭和16年)4月、「東京ゴルフ倶楽部朝霞コース」は陸軍戦車隊用地として、「武蔵野カンツリー倶楽部六実コース」と「武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース」は陸軍飛行隊に、1942年(昭和17年)には「川奈ホテルゴルフコース」、「那須ゴルフ倶楽部」も戦傷者の療養施設として徴用された。程ヶ谷カントリー倶楽部は徴用はされなかったが、最も近い「藤沢カントリー倶楽部(神奈川県、1931年-1943年、C・H・アリソン、赤星四郎)」が海軍に徴用された。程ヶ谷カントリー倶楽部では、1941年(昭和16年)から、農作部を設け、馬鈴薯や野菜などを栽培した。接収された朝霞コース、六実コース、藤ヶ谷コース、藤沢カントリー倶楽部などのコースは、戦後、復興することはなかった。1944年(昭和19年)2月、インコースが閉鎖され、海軍の飛行場のために供出された。1945年(昭和20年)に入ると、戦局は悪化し、コースの維持が不可能となり、同年4月15日、コースを閉鎖することになった[3]。 東京では、1945年(昭和20年)3月9日以来、B29の爆撃を受け、4月15日の夜、約200機のB29爆撃機と空母からの延べ数百機の爆撃機による大空襲を受け、東京は焼け野原となった。国防上事態は深刻であると、海軍の指示で三菱重工横浜ドックから、機材や資材の置場と諸施設の借受の要請を受けた。この年、横浜ドックの使役していた米豪の捕虜200人が、食料増産の農耕に従事していた。また、1番、4番、5番、7番ホールの斜面を利用して、地下家屋が朝鮮人労働者によって構築された。1945年(昭和20年)8月15日、終戦となり、翌月の9月20日、神奈川県渉外事務局からクラブハウスの明け渡しの指令があった。その1週間後、米軍軍隊が野砲4門を18番グリーン付近に据え付け、同年暮れ、米第8軍の将校倶楽部として接収された。クラブハウスは模様替えされ、ダンスホールやステージが造られ、米軍将校の家族が連日饗宴していた[3]。 コースの復旧が進められ、1946年(昭和21年)5月、アウトコース9ホールを開場、同年11月、インコース9ホールを開場した。コース整備は、調達庁が安達建設に行わせたが、良い芝が手に入らず、富士山麓や秋田県から野芝を取り寄せた。倶楽部は米第8軍に接収されていたが、従業員や復員した浅見緑蔵、中村寅吉、島田二郎、山口三郎らのプロも米第8軍に雇用された。コースの所有者だが、コースでプレーするのは米軍関係者だけである。1946年(昭和21年)9月、キャプテンと倶楽部役員が連名で、日本人にもコースを使わせて欲しいと要請したが、要請は米第8軍に黙殺され、実現したのは5年後の1951年(昭和26年)になってからであった[3]。米第8軍の接収中の1950年(昭和25年)2月、米軍の失火により、クラブハウスが全焼した[4]。 講和条約の準備が進み、1951年(昭和26年)末頃、土日曜を除き一日20名限定で日本人会員のプレーが許されるようになった。しかし、クラブハウスは焼失したので、馬小屋のような更衣室をクラブハウスとして利用した。良かったことは、300円程でビフテキが食べられた、米軍が無税でクラブやボールを輸入しているので、米軍従業員に頼んで安く譲ってもらうことが出来た。1952年(昭和27年)4月1日、6か月間、コースを賃貸する契約を締結したが、契約はさらに6か月間延長され、1953年(昭和28年)3月末まで、日米共同使用が継続された。また、新クラブハウスの建設費、コースの諸設備の改修など多額の費用が必要なため、新たな会員を募集することにした。1951年(昭和26年)時の会員数は494名で、1952年(昭和27年)春の調査で残留会員は350名、最終会員数を850名と決定し、新会員を500名前後募集することにした[3]。 米第8軍占有時のコースは、相当荒れていた、将校だけでなくGI(一般兵卒)もプレーし、ゴルフを初めてプレーする連中が多く、コースは酷使され、整備も行われていなかった。コース内の樹木も減り、池も埋められていた。1952年(昭和27年)10月、クラブハウスが着工された、設計は会員の渡辺仁と高木秀寛の共同設計、施工は、鹿島建設が行った。1953年(昭和28年)3月15日、新しいクラブハウスが完成した、1階は鉄筋コンクリー造で、2階は木造の総建坪322坪、建築費は総額3千万円だった。開場式を行い、任意団体であった程ヶ谷カントリー倶楽部は改組して社団法人となった。1954年(昭和29年)から2年かけ、コース整備が行われ、野芝のフェアウエイを高麗芝で約3万5千坪を張り替えた[4]。
歴史
程ヶ谷にゴルフ場開場
関東大震災と太平洋戦争
戦争によりコース閉鎖
米第8軍に接収される
終戦でもコース使えず
復旧費用にと会員募集
新クラブハウスの建設
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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