稀勢の里寛
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稀勢の里 寛

明治神宮での奉納土俵入り
(2017年1月27日撮影)
基礎情報
四股名稀勢の里 寛
本名萩原 寛
愛称ハギ、キセノサトン、ニショノン、キセノン[1][2][注 1]
生年月日 (1986-07-03) 1986年7月3日(37歳)
出身茨城県牛久市(出生地は兵庫県芦屋市
身長188cm
体重177kg
BMI50.08
所属部屋鳴戸部屋→田子ノ浦部屋
得意技左四つ・寄り・突き・押し・左おっつけ
成績
現在の番付引退
最高位第72代横綱
生涯戦歴800勝496敗97休(101場所)
幕内戦歴714勝453敗97休(85場所)
優勝幕内最高優勝2回
幕下優勝1回
殊勲賞5回
敢闘賞3回
技能賞1回
データ
初土俵2002年3月場所
入幕2004年11月場所
引退2019年1月場所
引退後年寄・荒磯二所ノ関
趣味スポーツ観戦(特にアメフト観戦)[3]ゴルフ(引退後)[4]
備考
金星3個
朝青龍1個、白鵬2個)
2021年12月24日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

稀勢の里 寛(きせのさと ゆたか、1986年昭和61年〉7月3日 - )は、茨城県牛久市出身[注 2](出生地は兵庫県芦屋市[5][6])で田子ノ浦部屋(入門時は鳴戸部屋)に所属した元大相撲力士。第72代横綱平成時代に横綱昇進を果たした最後の横綱)。現在は、年寄二所ノ関

本名は萩原 寛(はぎわら ゆたか)。愛称はハギ、キセノン[1][2]身長188cm、体重177kg、足のサイズ32cm、血液型はB型。趣味はスポーツ観戦。好きな食べ物はのっぺい汁焼き鳥、フグ刺し、紀州南高梅[3]、茶碗蒸し[7]からつバーガー[4]ホヤ[8]。大相撲引退後に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修了。

得意手は左四つ・寄り・突き・押し、左突き落とし締め込みの色はえんじ色ナス紺。生まれつき左利きであり、練習により両利きになったがおもに左手を使う[9]。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[10]スポーツニッポン評論家(大相撲担当)[11]
来歴
生い立ち

1986年7月3日に兵庫県芦屋市で父・萩原貞彦と母・裕美子の間に生まれ、「寛」と名付けられた。兄弟姉妹には1歳上の姉がいる。名前の「寛」を「ゆたか」と読むのは「ひろし」より語感がいいという父の思いからである[9]。生まれたときの体重は3,600gであったが、乳児期から食欲旺盛でもらいまでして育った[12]

芦屋は父の転勤の関係で住んでいた場所であり、その後一家は埼玉県幸手市、そして萩原が2歳のときに茨城県龍ケ崎市に移住[13]。「丈夫な体に育つように」と両親からは清涼飲料水スナック菓子は一切与えられずに育ち[14]、母からはさまざまな手料理を振る舞われた[15]。食卓には煮干しや酢の物などの子供が敬遠しそうな食材が必ず並び、油は全てオリーブ油が使われた[16]。龍ケ崎市在住時代、龍ケ崎市総合体育館近くの山にある140段の階段で足腰を鍛えた[17]

父方の祖父は画家で、父・貞彦は祖父が62歳くらいのときに生まれた。父方の祖父は東京中井から疎開して群馬県太田市に行ったが、ずっと東京が本籍であった。祖父が画家として働き盛りのころは、戦後日本人の多くがを買う余裕がなかったため、米軍兵を相手に肖像画を描いて商売した。曾祖父は彫刻家であり、このことから萩原家の家系は芸術家の家系であると言える[12]。しかし画家の子の父はかつて本格的にボクシングに取り組んだ格闘家であり、脱サラしてIT関連の仕事を始めた経験を持つ[14][12]

龍ケ崎市立みどり幼稚園、龍ケ崎市立松葉小学校を経て龍ケ崎市立長山中学校に進む[18]。萩原が中学2年のときに一家は茨城県牛久市へ引っ越したが、その後も長山中に通う[19]。牛久市で過ごしたのはわずか1年あまりであり、出生から入門までの間そのほとんどを龍ケ崎市で過ごしている。出身地が牛久市とされているのは、部屋入門時の住所地が牛久市であったことによるものである。

初めての相撲経験は小学2年時に龍ケ崎市内のニュータウン地区に造られた通称「たつのこ公園」の落成式における相撲大会であった[20]。親に説得されて嫌々出場したこの大会で5人抜きをやって金メダルを獲得、その次の日に朝礼表彰を初体験し気分を良くしたことによる[12]。翌年の小学3年時も同じ大会で優勝している。小学4年時からはわんぱく相撲大会の茨城県大会で好成績を残し全国大会に出場した。

小学校4年生から野球もやっており、近所の「龍ケ崎ハリケーンズ」に所属、能力も高かった。小学生時代は捕手を、中学1年からは長山中の野球部で投手を務め、中学3年のときには常総学院などの強豪校からの勧誘もあったが、「自分はでかいだけ。野球はうまくない」という理由で断った[21]。中学時代の野球部の監督は野球部員としての寛を「長身の本格派。器用さもあった」と語っており、大関時代にも本人がトークショーでそのころの自分を「技巧派」などとふざけ半分で語ることがあった[22]。父親としては、中学時代は柔道をやらせた方がよかったそうだが、中学校には柔道部がなかったので野球部にしたという[12]

出身中学で2、3年次に担任をしていた教員の証言によると、「アンバランスな印象の子でした。見た目は大人以上に大きいのに、中身は子供なんですから。わんぱくでしたよ。男子はよく休み時間にじゃれあって遊びますが、ほかの子より腕力が強いとか、体格が良いとかを忘れるんでしょうね。相手を泣かせてしまう。それで叱ると、涙をこぼすんです。でも、彼は男子の間で人気者でした。人を笑わせたり楽しませたりすることが大好きで、掃除をさぼることがあっても憎まれない。スポーツが好きで、部活体育祭に一生懸命に取り組む。給食もたくさん食べる。そんな子です。体は大きいけれど、普通の中学生でしたよ」とのこと[23]
入門

小学校時代に相撲の全国大会に進んだものの中学校に入ってからは相撲との関わりはなくなっていたが、中学1年時に大相撲中継を見ていたときに「鳴戸部屋は角界一の稽古量」と紹介されていたのを聞いて漠然と鳴戸部屋への思いを抱く[24]。具体的に角界入りを考えたのは中学2年の12月であり、鳴戸部屋を訪ねた際に鳴戸からは「これは、末は大関横綱に必ずなる。ぜひ入門してほしい」と太鼓判を押された。入門にあたって難色を示す両親や中学の先生を鳴戸親方が熱心に説得して実現し、萩原親子は他の部屋を回ることなく入門を決めた[15]

本人は引退後に、中学時代に野球で対戦した美馬学(現プロ野球ロッテ投手)[25]の才能を目の当たりにして野球に限界を感じ、そこでプロで通用する見込みがあり稼げる相撲にシフトした旨を語っていた。また、父は「身長180センチを超える日本男児は相撲取りになるべきだ」とよく口にしていた[16]

中学卒業後に鳴戸部屋に入門。大阪で開催される3月場所の関係上、中学校は3年生の2月上旬までの登校となった。入門前から力士としての自覚は持っていたようであり、中学の最後の登校日にサインを求められると一人前ではないからと断った[26]卒業文集には「天才は生まれつきです。もうなれません。努力です。努力で天才に勝ちます」と書き残している[27]。入門の際、母からは入門後3年は相撲を続けて家に帰ってこないようにと言われて送り出された[15]

勧誘の際に両親を交えて13代鳴戸と食事を行ったが、焼肉に始まる豪華な食事を次々と平らげ、「食事を残してはいけない」という両親の教えを守り、焼き鮭は皮まで食べた。そのとき最後に出た料理は目玉焼きであると伝わる[28]
初土俵?十両

鳴戸親方が萩原のを見て、「初めて見たとき、てんぐのうちわのような指をしていた」と評したほど5本の指がきれいに分かれるなど、身体的な素質が認められていた[9]。萩原は中学2年の途中から卒業まで毎晩、ちり紙を丸めたものや市販のスポンジを親指と人さし指の間に詰めて睡眠することで、外反母趾にならないように気をつけた[9]。萩原を大器と見込んだ13代鳴戸は、入門したばかりの萩原を若の里(現西岩)の付け人に指名し、若の里は毎日萩原をだらけになるまで稽古づけた[29]。その稽古熱心さからある親方からは、「もうやらなくていい。そのへんでやめておけ」と言われるほどであった[15]

13代鳴戸から教わったことは、座敷への上がり方、酌の仕方、箒の持ち方など、その9割が礼儀作法であった[30]。13代鳴戸は「人の残すものから食べろ」と教えたため、トンカツならキャベツから、定食なら小鉢の酢の物から口にした。野菜から最初に食べるという食育が普及する20年前から稀勢の里はそれを実践していた[31]

当初は「20歳になるまでに三段目に上がっていなかったら、相撲を辞めよう」[32]としていたが、2002年3月場所の前相撲は2連勝で一番出世、序ノ口序二段も1場所で通過し初土俵から半年で三段目に昇進した。2003年5月場所で7戦全勝しながら優勝決定戦でいいところなく敗れ三段目優勝を逃し、花道で人知れず涙した。その姿を目撃した当時新横綱の朝青龍から、「その気持ちがあれば、お前は強くなる」と慰められた[33][34][35]

2004年5月場所に新十両。十両昇進は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(17歳9か月)であった。ただし十両では終盤戦で頻繁に立合い変化に敗れ失速、二桁勝利を挙げられず同時に十両昇進し、十両を2場所で通過した琴欧州豊ノ島に遅れをとったが、わずか3場所で通過した。当時18歳であった萩原(稀勢の里)の将来と過去の大横綱とを重ね合わせて見ていた相撲ファンがいたことについては、2016年9月場所前の雑誌のインタビューで記者に問われた際に、「自分はそんなこと、考えてもいませんでしたよ」と答えた。若さゆえの反発はなかったかと聞かれると13代鳴戸の厳しさを指して、「そんなことが許される状況ではなかったからね(笑)当時、自分はあってないようなものでしたから」とコメントしている[36]
幕内?三役

2004年、11月場所は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録(18歳3か月)で番付を駆け上がり、新入幕を果たす。同時にこれまで本名のままで取っていた四股名を「稀勢の里」と改名した。鳴戸は自身の横綱昇進の際に永平寺の高僧から贈られた掛け軸に書かれた「作稀勢」の文字から着想を得て「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて提案、本人も納得してつけられた。萩原の父は当初「武の里」の四股名を提案していたが、鳴戸はこの案を「それじゃあ、『タケちゃん』って呼ばれてしまうぞ」として難色を示した[37]


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