称号剥奪法_(1917年)
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称号剥奪法: 称号剥奪法[1]
議会制定法
正式名称敵対的王侯貴族より英国爵位及び称号を剥奪する法律
(An Act to deprive Enemy Peers and Princes of British Dignities and Titles)
法律番号7 & 8 Geo. 5 c. 47
日付
裁可1917年11月8日[2]
法律制定文
改正法の改訂条文

称号剥奪法(しょうごうはつだつほう、: Titles Deprivation Act)は、イギリス議会制定法。本法の施行により、第一次世界大戦中にイギリスと敵対する関係にあった王族・貴族は英国爵位や称号を剥奪された[3]。本項では前段となったガーター勲位?奪に関しても触れる。
制定に至る経緯英国女王ヴィクトリア称号剥奪派の急先鋒であったスウィフト・マクニール庶民院議員

イギリス王室は元来、ドイツ連邦諸邦とはその歴史的経緯から密接な関係にあった。英国王ジョージ1世ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯家出身ながら、1714年グレートブリテン王として即位したため、約1世紀にわたって英国とハノーファー王国同君連合の関係にあった[4][5]

ヴィクトリア1837年に即位すると両国の同君連合は解消されたが、ハノーファー王位は女王の叔父のエルンスト・アウグストに引き継がれた。ただ、ヴィクトリア女王がザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のアルバートと結婚するなど、その後もイギリス王室とドイツ諸邦との関係は続いた[4][6]

しかし1914年第一次世界大戦が勃発すると、イギリスとドイツ諸邦が敵対することとなり、王家同士も両陣営に分かれて戦う状況に陥った。

1914年11月18日の議会において、南ドニゴール選挙区(英語版)選出の庶民院議員にして憲法学者スウィフト・マクニール(英語版)(1849-1926)は、ドイツ帝国を支持するカール・エドゥアルトエルンスト・アウグストを裏切者として非難し、「彼らが最早わが国の爵位や(貴族院の)議席を喪失している点を明確にするいかなる措置が講じられているのか」と政府に説明を求めた[7][8]

1915年に入ると、有力紙『デイリー・テレグラフ』に「北部諸侯の乱(英語版)のときにガーター勲章を剥奪されたノーサンバーランド伯爵の先例にならい、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}皇帝(カイザー)の勲章も奪うべし」といった趣旨の投書がなされた[9]。このとき国王ジョージ5世はアルフレッド・スコット=ゲッティ(英語版)ガーター主席紋章官(英語版)に投書の内容の真偽を問うたが、ほどなくスコット=ゲッティ紋章官から「投書の内容は史実であり、国王は騎士団の主権者として剥奪は可能」との返事を受け取っている[10]

イープルの戦いにおいて毒ガスが使用されたことで対独感情は悪化を続けた。この直後、新聞『デイリー・クロニクル』は聖ジョージ礼拝堂(英語版)に掲げられた独皇帝のバナーを『恥辱のバナー』とまで罵ったほか、国王には母アレクサンドラ王太后からも「速やかにバナーを引きずり下ろすべき」との手紙が舞い込むに至った[11]。事ここに至ってジョージ5世も剥奪を決断し、1915年5月14日に騎士団員のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世以下ドイツ諸侯やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を対象にそのバナーを撤去した[12]。ただしこの時も爵位を没収することは行わなかった[13][14]

残る爵位に関してもアスキスや後任のロイド・ジョージは爵位を剥奪することに抵抗したにもかかわらず、件のマクニールは1918年に議席を失うまでなおも要求を続けた[15][16][17]。マクニールが落選すると、南ハックニー選挙区(英語版)選出のホレイシオ・ボトムリー(英語版)(1860-1933)がその後を引き継いだ[18][19]

その後も高まり続ける反独感情を考慮した結果、英国議会は1917年に勲章を始めとする栄典のみならず、英国と敵対する王侯貴族に対して、その称号や爵位の剥奪を認可する本法を可決するに至った[20]
枢密院特別委員会

称号剥奪法には「国王は枢密顧問官よりなる委員会を設けることができる」と定める条文があったほか、その場合、枢密院司法委員会の少なくとも2人の委員を含めて審議を行ったうえで、同委員会の報告に基づいて剥奪する旨を規定していた[21]

委員会は、「今般の戦争において、いかなる者が英国及び同盟国に敵対的であるか、あるいは国王陛下の敵を支持しているか」に焦点を当て、該当する王侯貴族を報告する権限が与えられていた[21]

報告は、庶民・貴族両院の管理下に置かれ、両院が40日以内に報告不承認の動議を通過させなかったとしても、国王に報告書自体は提出されることになっていた。

また、称号剥奪法は「宣告を受けた者の後継者はその爵位にかかる回復請求を行うことができる」とも定めており、その場合、請願書は枢密院委員会に付託されたのち、請願者を復帰させるかどうかを審議及び裁定することを規定している。 かつ、いかなる場合も、本法が「所領またはその他の財産を有する者ならびに、その相続人に影響を与えることはない」とも規定していた[21]

ジョージ5世は同法2条の規定に基づいて、以下の者を委員会委員に任命し、1917年11月27日付で委員会を招集した。

肖像枢密院特別委員会委員兼任
初代フィンレイ子爵ロバート・フィンレイ(英語版)大法官
初代サンドハースト子爵ウィリアム・マンスフィールド(英語版)宮内長官(英語版)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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