秩父宮雍仁親王
[Wikipedia|▼Menu]

秩父宮雍仁親王
秩父宮家
陸軍歩兵中佐の時期(1938年(昭和13年)3月から1939年(昭和14年)8月)に撮影
続柄大正天皇第2皇男子[1]

宮号秩父宮(ちちぶのみや)
全名雍仁(やすひと)
称号淳宮(あつのみや)
身位親王
敬称殿下
お印若松(わかまつ)
出生1902年6月25日
日本東京府東京市赤坂区青山東宮御所
(現:東京都港区赤坂
死去 (1953-01-04) 1953年1月4日(50歳没)
日本神奈川県藤沢市鵠沼別邸
埋葬1953年1月12日
日本、東京都文京区豊島岡墓地
配偶者親王妃勢津子(松平節子)
父親大正天皇
母親貞明皇后
役職 陸軍少将
テンプレートを表示
1921年(大正10年)、大正天皇の4皇子。
左から皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)、澄宮崇仁親王(後の三笠宮)、光宮宣仁親王(後の高松宮)、淳宮雍仁親王

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年明治35年〉6月25日 - 1953年昭和28年〉1月4日)は、日本皇族大正天皇貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。

妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。御称号は淳宮(あつのみや)[2]身位親王お印若松(わかまつ)。日本陸軍の軍人でもあり、階級少将勲等功級大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はない。
来歴赤坂表町の秩父宮御殿
生い立ち

幼少の頃は兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)、弟の光宮宣仁親王と共に育ち、年齢の近い三兄弟とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄宮とよく比較された。玩具の取り合いで兄宮と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。

祖父である明治天皇には「よく玩具を与えられた」と回想しているが、実際には明治天皇と触れ合う機会は、天皇自身が公務を優先したため生涯ほとんど無く、崩御寸前まで玉音を聞くこともなかった。反面、義理の祖母にあたる昭憲皇太后にはよく会い、兄弟や学友と共に芝居を披露したこともあった。
陸軍軍人として

1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に、学友9人とともに[3]編入した(19期)[4]。この際、幼年学校側は親王に配慮し、二人称一人称は学習院同様に「君?僕」を生徒に使わせようとしたが、雍仁親王本人が「貴様?俺」を率先して用いた[4]。在学中は、従来の武道以外に、野球テニス卓球等の他のスポーツが盛んになり、極東選手権競技大会も観戦する等、雍仁親王が幼年学校の校風に影響を与えた[4]。少年らしい悪戯や失敗の逸話も残されており、同期の団結の中心となった[3]

1920年大正9年)10月、陸軍士官学校に入校した。同期には服部卓四郎西田税などがいる。卒業後、1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官した。

1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入校、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。陸大の卒業時には、成績優秀であったため慣例に反して恩賜の軍刀を与えてはとの議論が教官の間であった[5]

1922年(大正11年)6月25日に20歳で成年式を行い、宮家秩父宮」を創立した。宮号の由来は、秩父嶺帝都東京と同じ武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことにちなみ選定された。同日、貴族院皇族議員に就任[6]。1928年(昭和3年)9月28日、松平節子と結婚。成婚にあたり皇太后(九条節子)に遠慮して勢津子と改名した。当時は「世紀の大恋愛」と報道されたが、実際には自由恋愛ではなかった。

妃勢津子との間に結果として子女はなかったが、一度だけ勢津子が懐妊したことがあった。親王は非常に喜んだが流産し、親王は勢津子と共に悲しみにくれた。

1930年(昭和5年)12月5日、帝都復興記念章を授与された[7]

1931年(昭和6年)11月23日より第一師団歩兵第3連隊(歩三)の中隊長を務めた[8]。歩三時代には安藤輝三などとも交流を持ち、彼らの革新思想の影響を受けた。本庄繁日記によると、この頃に秩父宮は昭和天皇に対して親政の必要を説き、憲法停止も考えるべきと意見したため激論となった。昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「秩父宮の考えは断じて不可」と述べ、さらにこれを受けて1932年(昭和7年)6月21日に宮内大臣官邸において、一木喜徳郎木戸幸一近衛文麿原田熊雄が「秩父宮の最近の時局に対する御考がややもすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」している。秦郁彦谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている[5]。昭和天皇からの内意により、青年将校から引き離すため同年9月に陸軍参謀本部第一部第二課(作戦課)に転補された。

1935年(昭和10年)8月、青森県弘前市歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられた。勢津子妃も同行し、弘前市紺屋町の菊池長之別邸に居住した[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef