秩父夜祭
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秩父夜祭
Chichibu Night Festival
[1]

イベントの種類曳山祭り
通称・略称夜祭
正式名称秩父祭
開催時期12月1日 - 6日
会場埼玉県秩父市秩父神社
主催秩父神社、秩父夜祭観光祭実行委員会
最寄駅西武秩父線西武秩父駅秩父鉄道秩父駅御花畑駅
駐車場秩父夜祭大祭(12月3日)臨時駐車場有
公式サイト
備考:
ユネスコ無形文化遺産
日本三大美祭/日本三大曳山祭
国の重要無形民俗文化財
及び重要有形民俗文化財
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秩父路の記

秩父夜祭(ちちぶよまつり)は、毎年12月1日から6日埼玉県秩父市で行われる秩父神社例祭である[2][3]。12月2日が宵宮、12月3日が大祭であり、提灯で飾り付けられた山車(笠鉾・屋台)の曳き回しや、冬の花火大会で全国的に知られている。祭りは寛文年間から続くとされ、300年以上の歴史がある。日本屈指の極めて豪華な祭りであり、一連の行事が国の重要無形民俗文化財に指定されている。

秩父夜祭は、京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並んで日本三大美祭及び日本三大曳山祭の一つに数えられる[4]

秩父夜祭の笠鉾・屋台は、を一本も使わずに組み立てられる。金色の飾り具や極彩色の彫刻、後幕の金糸刺繍で装飾された笠鉾・屋台は「動く陽明門」といわれるほど豪華絢爛で、国の重要有形民俗文化財に指定されている。

同一の祭礼について国の重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財の両方に指定されているものは日本全国に5例しかなく、秩父夜祭はそのうちの一つであり、歴史的・文化的に非常に価値の高い祭りである。
概要

2日は宵宮(宵祭り・宵まち)で、御神馬奉納の儀、神楽奉奏、屋台曳き回しなどがある。この日は笠鉾・屋台のうち屋台4台が運行され、秩父神社への宮参りや、夜にかけて本町・中町・上町通りの曳き回しが行われる。また、夜には「番場町諏訪渡り」神事のほか、3日に比べると規模が小さいものの花火の打ち上げも行われる。

3日は大祭であり、日中に御神馬宮詣、神楽奉奏、例大祭祭典、笠鉾・屋台曳き回しなどがある。笠鉾・屋台は本町・中町・上町通りを曳き回される(夕方には一部の屋台が秩父駅前通りおよび秩父まつり会館前を経由して秩父神社に向かう)。また、笠鉾2台の秩父神社への宮参りも行われる。屋台4台のうち1台では「屋台芝居」が上演される。それぞれの屋台は、左右に張り出し舞台をつけられるように設計されており、年ごとの当番制で屋台芝居の舞台となる。

3日夜は神幸祭となり、午後6時半頃に御神幸行列が1キロメートルほど離れた御旅所に向けて秩父神社を出発する。先頭は、先導大麻、大榊、猿田彦、日月万燈、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱の列である。次に氏子町会の供物・高張提灯の長い列が続く。その後ろに、御神饌、大幣、そして御霊が遷された神輿、宮司、大総代、2頭の神馬が続く。6台の笠鉾・屋台行列が御神幸行列の後に続き、秩父神社を午後7時頃から順次出発する。

御旅所への到着は、御神幸行列が午後8時頃、笠鉾・屋台行列はその後、午後10時頃にかけてである。御旅所の手前に急坂の団子坂があり、最大20トンの笠鉾・屋台がそれぞれ一気に曳き上げられる。同時に、煙火町会による奉納花火や観光協会主催の花火の打ち上げも行われ、団子坂の曳き上げや御旅所に整列する頃が祭りの最高潮となる。

笠鉾・屋台の整列が終わると御旅所斎場祭が厳かに行われる。斎場祭終了後、4日午前0時頃から団子坂の曳き下ろしが行われ、笠鉾・屋台は収蔵庫へ向けて帰還する。また御神幸行列が御旅所を出発し、秩父神社に還幸する。

笠鉾・屋台の通過経路(神幸路)には、経路最大の見所である団子坂に通じている道路上に秩父鉄道秩父本線踏切がある。これは、御花畑駅構内の三峰口方の踏切で、車窓から団子坂を臨むことができる。この踏切は、御神幸の神事を行うため笠鉾・屋台の通過の支障となる架線を一時的に取り外すことが可能な構造になっている。3日大祭の19時?22時前後にかけて同線の秩父影森間は運休となり、例大祭当日は秩父鉄道秩父本線ならびに西武鉄道池袋線西武秩父線では、ダイヤが大幅に変更され、列車も増発される。また、終了が深夜になるため、最終電車も大幅に繰り下げられる。笠鉾・屋台が曳き回される道にある道路標識信号機は、すべて折りたためる構造となっている。
沿革

1962年(昭和37年)、笠鉾・屋台が重要有形民俗文化財に指定された[5]。また、例大祭の付け祭りに公開される笠鉾や屋台の曳行(えいこう)と、曳行のための秩父屋台囃子(ちちぶやたいばやし)、屋台上の秩父歌舞伎曳踊り等の一連の行事が、1979年(昭和54年)に「秩父祭の屋台行事と神楽」として重要無形民俗文化財に指定された。

2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された[6]

2016年12月1日エチオピアで開かれた国際連合教育科学文化機関の政府間委員会で、日本の「山・鉾・屋台行事」(18府県の計33件)のユネスコ無形文化遺産への登録が決定した。これにより、「秩父祭の屋台行事と神楽」がユネスコ無形文化遺産へ正式に登録された。

2020年令和2年)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行拡大防止のため、山車の曳き回し・花火の打ち上げなどの主要行事について、中止が決定。1988年(昭和63年)の昭和天皇療養に伴う措置以来、32年ぶりの中止となった。12月2日の宵宮は、諏訪渡り神事のみ規模を縮小して実施。3日の大祭は、秩父神社本殿での祭典と御神幸祭のみ規模を縮小して実施。御神幸祭は、御神輿が出ず、コースは番場通りを往復する形に短縮された[7]。翌2021年令和3年)も感染症流行拡大防止のため、山車の曳き回し・花火の打ち上げなどの主要行事について、2年連続で中止となった。2022年については、3年ぶりに屋台と笠鉾の引き回しが実施される(ただし秩父神社本殿での祭典は規模を縮小)ことが同年10月に発表された[8]
由来
祭りの起源

秩父地方は、令制国が整備される前の時代、知知夫国(知々夫国・秩父国)が置かれた地域である。崇神天皇の時代に、知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が初代知々夫国造に任じられている。秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命(やごころおもいかね の みこと)を祀ったことに始まるとされている。また、知知夫彦命は養蚕と機織りを教示したと伝えられる[9]。令制国として武蔵国が成立した後も、708年(和銅元年)に武蔵国秩父郡から和銅が献上されたことを記念して「和銅」改元や「和同開珎」の鋳造が行われるなど、古くから朝廷と結びつきがあり、交易が行われていた地域である。

秩父神社は中世になると、秩父氏坂東八平氏の一つ)の祖先である平良文により妙見菩薩が合祀され、妙見宮秩父神社となったと伝えられる。江戸時代には秩父大宮妙見宮として、日本百観音秩父三十四箇所(秩父札所観音霊場)とともに栄えた。現在でも神幸祭(御神幸行列や御旅所斎場祭ほか)の祭礼の中などに、古くからの秩父神社例大祭の形態が残っているとされる。例大祭の「付け祭り」として笠鉾・屋台が曳かれ始めるようになったのは、約300年前の寛文年間の頃と伝えられている。

かつて秩父夜祭は「霜月大祭」との呼び名があった。これは霜月である旧暦11月3日に行われていたことによる。明治初期の太陽暦採用により新暦の12月3日に移行した。また「お蚕祭り」とも呼ばれた。秩父地方は、の生育に適した土地であったため、田畑の他に現金収入となる養蚕・絹織が盛んであった。江戸時代にはの生産量が増大し、「秩父絹」として江戸をはじめ広く知られるようになった。各地に取引のための絹市が開かれ、大宮郷(現在の秩父市中心部)では1・6の市日の六斎市が行われている。特に秩父神社の「霜月大祭」では「絹大市」も行われた。


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