秩序警察
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秩序警察の旗ペナント

秩序警察(ちつじょけいさつ、:Ordnungspolizei、略称Orpo(オルポ))は、1936年から1945年まで存在した、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)政権下のドイツ警察組織[1]。常時制服を着用する警察組織の総称である[1]。着用する制服の色から「緑色の警察(Grune Polizei)」とも呼ばれていた。英語では「order police」とも訳されることがある。ナチ党政権下のドイツ警察組織は秩序警察と保安警察に二分されていた[1]。「組織警察」[2]とも訳される。
歴史秩序警察による家宅捜索(1939年11月ポーランドワルシャワ

1936年6月17日親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任命された[1]6月26日にヒムラーはドイツ警察をクルト・ダリューゲ親衛隊大将が指揮する秩序警察と、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将が指揮する保安警察に二分し、制服を常時着用する警察組織は秩序警察にまとめた[1][2][注釈 1]

秩序警察本部 (Hauptamt Ordungspolizei) の下に大都市の治安維持を担当する都市防護警察(Schutzpolizei des Reiches)、自前で予算を捻出できる中都市の治安維持を担当する地方防護警察(Schutzpolizei der Gemeinden)、自前で警察運営できない小規模の自治体の治安維持を担当する国家地方警察(Gendarmerie)、消防団(Feuerwehr)の上位にある消防警察(Feuerschutzpolizei)、大事故や災害に対応する緊急技術支援隊(Technische Nothilfe)などが置かれていた[1]。1943年以降は鉄道防護警察(Bahnschutzpolizei)、防空警察(Luftschutzpolizei)、郵便保安部(Postschutz)も秩序警察本部の管轄となった[4]

秩序警察本部は秩序警察長官(Chef der Ordnungspolizei)によって指揮される。はじめはクルト・ダリューゲ、1943年以降は「病気療養のため」としてダリューゲが退き、アルフレート・ヴェンネンベルク親衛隊大将が秩序警察長官事務取扱として指揮した[3]

犯罪捜査を担当する刑事警察はゲシュタポとともに保安警察に再編されていたが、アルトゥール・ネーベを部長とする中央の国家刑事警察本部(RKPA)が完全にハイドリヒの指揮下にあったのに対し、刑事警察の地方分署は、専門的な指図を国家刑事警察本部から受けつつ、秩序警察に属する地方の警察署長が刑事警察の分署所長を兼ねたために、間接的に秩序警察の管轄下にもあるという二重権力構造になっていた。そのため刑事警察の管轄権をめぐってハイドリヒとダリューゲの間には対立があった[5]。1943年8月に反SS的な内相ヴィルヘルム・フリックが更迭されてヒムラーが新内相となるとそれまで保安警察(国家保安本部)と距離を置いて付き合ってきた秩序警察は、刑事警察の指揮権を完全に国家保安本部に奪われたうえ、それまで秩序警察が担当した警察の報告、登録業務、警察法規、警察組織全般に関する一切の業務も国家保安本部に移され、政治的には力を喪失した[6]

1939年に第二次世界大戦が開戦すると秩序警察の国家地方警察は国防軍に人員を出した(多くは野戦憲兵となる)[7]。また秩序警察は武装親衛隊への人材提供や警察連隊として戦場に派遣され、1939年10月には15000名の秩序警察官からなる「警察師団」が編成された。この師団は西方電撃戦ロシア戦線で活躍し、1942年2月には武装親衛隊に編入され「SS警察師団」と改称され、ついで装甲擲弾兵師団に、1943年9月からは第4SS警察装甲擲弾兵師団となった[8]。戦争末期には新たに第35SS警察擲弾兵師団が創設されているが、師団として実戦に投入されたかは不明である[9]。警察連隊(Polizei regiment)は占領地域における対パルチザン戦闘など治安維持活動のために編成されたもので1943年以降は「SS警察連隊」に名称変更されている[10]

ドイツの敗戦で秩序警察は事実上消滅し、1945年7月に連合国管理委員会(英語版)が成立するとドイツ警察改革が布告され、各占領地域でドイツ警察組織の再編が行われた[11]
組織

SS上級大将クルト・ダリューゲ秩序警察本部長官 (Chef der Ordnungspolizei) は、親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) であるハインリヒ・ヒムラーに直接報告を行なう立場にいた。ダリューゲは1943年8月31日に病により秩序警察本部長官職を事実上退任しており(形式的には終戦まで留任)、1943年9月1日付けでアルフレート・ヴェンネンベルクSS大将が秩序警察本部長官事務取扱として実質的な後任に任じられた。
秩序警察本部ベルリンウンター・デン・リンデンの秩序警察本部外観。

秩序警察本部 (Hauptamt Ordungspolizei) は、秩序警察の司令塔であり、また、親衛隊の本部の一つである。本部内には総局、外局、総監部、監察官室、副官・連絡将校部が置かれ、基本的には秩序警察本部長官が統括し、各局長、総監は長官に対して直接報告義務があった。

秩序警察本部長官(Chef der Ordnungspolizei)

クルト・ダリューゲ親衛隊上級大将(1939年9月1日 ? 1945年5月8日、1943年8月31日に休職)

アルフレート・ヴェンネンベルク親衛隊大将(1943年8月31日 ? 1945年5月8日、秩序警察本部長官事務取扱としての任期)

本部官房(Hauptburo)Gruppe 1(Personalangelegenheiten der Verwaltungsbeamten des Chefs)

ハインリヒ・マイネッケ(Heinrich Meinecke)
Gruppe 2(Alle ubrigen Burodirektorgeschafte)

ヨハネス・クラッパー(Johannes Klapper)
1943年11月に、経済に関係する部門は経済管理局の下に置かれ、残りの部門はヨハネス・クラッパーの元で指令局幕僚長(Stabfuhrer des Kommandoamt)に再編された。
総局

総局は主に秩序警察指令局と管理・法務局が存在した。

秩序警察指令局(Kommandoamt Ordnungspolizei)
局長

アドルフ・フォン・ボンハルト(Adolf von Bomhard)警察中将(1936年6月30日 ? 1942年10月1日)

オットー・ヴィンケルマン(Otto Winkelmann)警察中将(1942年10月1日 ? 1944年3月1日)

アントン・ディールマン(Anton Diermann)警察少将(1944年3月1日 ? 1944年7月31日)

ハンス・フラーデ(Hans Flade)警察少将(1944年7月31日 ? 1945年5月8日)


Amtsgruppenkommando I(Organisation, Ausbildung, Nachschubwesen:編制・訓練・補給)
部長

オットー・ヴィンケルマン(Otto Winkelmann)警察中将(1940年12月1日 ? 1942年10月1日)

ハンス=ディートリヒ・グリュンヴァルト(Hans-Dietrich Grunwald)警察少将(1942年10月1日 ? 1943年7月31日)

ハンス・ミュラー=ブルンクホルスト(Hans Muller-Brunkhorst)防護警察大佐(1943年8月1日 ? 1943年11月30日)

ハンス・フラーデ(Hans Flade)警察少将(1943年11月30日 ? 1944年8月31日)

ヨハネス・ロガルスキー(Johannes Rogalski)防護警察大佐(1944年8月31日 ? 1945年5月8日)


Amtsgruppenkommando II(Personalangelegenheiten:人事業務)
部長

ヴィルヘルム・フォン・グロールマン(Wilhelm von Grolmann)警察少将(1940年12月1日 ? 1942年9月30日)

パウル・オットー・ガイベル国家地方警察大佐(1942年10月1日 ? 1944年3月31日)

アルトゥール・バール(Arthur Bahl)防護警察大佐(1944年4月1日 ? 1944年9月)


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