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人物情報
生誕 (1932-12-12) 1932年12月12日(91歳)
日本・山口県防府市
出身校東京大学(学士、博士)
学問
研究分野日本近現代史
第二次世界大戦を中心とした日本軍事史
研究機関防衛庁防衛研究所
防衛大学校
大蔵省財政史室
プリンストン大学
拓殖大学政経学部
千葉大学法経学部
日本大学法学部
学位法学博士(東京大学)
主な受賞歴菊池寛賞
毎日出版文化賞
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秦 郁彦(はた いくひこ、1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の歴史家、元大蔵官僚。自身の専門は日本近現代史、軍事史とする。拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学法学部教授を歴任[1]。学位は、法学博士(東京大学・1974年)。 山口県防府市生まれ[2][3]。父は広島県広島市の出身で[4][5]、小学生までは郁彦の本籍地も広島の爆心地にあった[5]。このため自身は広島出身でもあると述べている[5]。父は鉄道省の技術官吏で、九州の宮崎県、出水(鹿児島県)、若松(福岡県北九州市)の順で機関区長をしたため、小学校を5回転校[4]。太平洋戦争中に広島市に引っ越し、原爆投下の一年前に母の実家がある山口県防府市に移った[4][6]。父は戦時中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して終戦の1か月前に戦死した[4][7]。 1951年、山口県多々良学園高校を卒業し、東京大学文科一類入学。進学振分で法学部第3類(政治コース)へ進級。在学中は戦史や、清浦奎吾ら政治家の研究に没頭した。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した[8][9]。当初の指導教官は丸山眞男だったが、この休学で丸山ゼミには入れず、岡義武に学んだ。 1955年の夏に国家公務員6級職採用試験を受験。行政職は採用が少なく、法学部でも第3類(政治コース)であったため、法律職では、終日、法律を勉強してきた連中に太刀打ちできないと考え、経済職を選択。近代経済学を独力で学び、試験に臨んでいた[10]。1956年に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。将来の転職も考え、通商産業省と自治庁の内定を辞退し、大蔵省に入省した。朝日新聞の入社試験も受けたが、落第した[4]。入省同期に小粥正巳(初代日本政投銀総裁、日本開銀総裁、公取委委員長、大蔵次官)、大橋宗夫
略歴
1963年にハーバード大学、1964年にコロンビア大学にそれぞれ留学。1965年に防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1969年8月に大蔵省へ復帰して、理財局国有財産総括課長補佐(総括・総務・審査)として沖縄返還の事務を担当[14]。