中華人民共和国 河北省 秦皇島市
山海関
河北省中の秦皇島市の位置
簡体字秦皇?
繁体字秦皇島
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カタカナ転写チンファンダオ
国家 中華人民共和国
省河北
行政級別地級市
面積
総面積7,812.4 km²
人口
総人口(2004)277 万人
経済
電話番号
秦皇島市(しんこうとう-し)は中華人民共和国河北省に位置する地級市。著名な高級避暑地北戴河や観光地山海関が位置する。 河北省最東部に位置し、南は渤海湾に面する。東は遼寧省葫芦島市、南西は河北省唐山市、北西は承徳市となっている。 古代の孤竹国の領域であり、戦国時代には燕国の遼西郡に編入された。北戴河の蓮蓬山には秦始皇帝や歴代帝王が巡視した碣石があり、市名の由来となっている。 1381年(洪武14年)、朱元璋が明朝開国功臣である徐達に命じ、万里の長城の東端となる山海関城を建築させている。1644年(崇禎17年/永昌元年)、李自成率いる農民軍により明朝が滅亡、大順が成立すると、山海関の守将であった呉三桂は清軍に帰順、山海関を開いて清兵を迎えた。これによって清朝は中原の地に入ることになった。
地理
歴史
行政区画としては1948年(民国37年)に設置された省轄市としての秦楡市を前身とする。翌年には秦皇島市と山海関市に分割され、後者は遼西省の管轄とされた。1953年には山海関市が廃止となり秦皇島市に編入、1958年に県級市に降格したが、1983年に再び地級市に昇格し現在に至る。
中国地名の変遷 4市轄区・2県・1自治県を管轄する。 秦皇島市の地図 この節の出典[1][2]
建置1948年
使用状況秦皇島市
中華民国秦楡市
現代秦皇島市・山海関市(1949年)
秦皇島市(1953年)
行政区域
市轄区:
海港区・山海関区・北戴河区・撫寧区
県:
昌黎県・盧竜県
自治県:
青竜満族自治県
海港区山海関区北戴河区撫寧区青竜満族自治県昌黎県盧竜県
年表
秦皇島市(第1次)
1949年10月1日 - 中華人民共和国河北省秦皇島市が発足。一区から三区までの区と海浜区が成立。(4区)
1950年1月25日 - 唐山専区臨楡県の一部が分立し、郊区
1950年7月11日 - 郊区が四区に改称。(5区)
1950年9月 (4区)
一区および二区の一部が合併し、一区が発足。
三区および二区の残部が合併し、二区が発足。
四区が三区に改称。
1953年1月2日 - 唐山専区山海関市を編入。(5区)
山海関市が区制施行し、山海関区となる。