科挙
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科挙
各種表記
繁体字:科舉
簡体字:科?
?音:k?j?
注音符号:?????
ラテン字:k'o1-chu3
発音:コージュ
広東語?音:fo1-geoi2
台湾語白話字:Kho-ku
日本語読み:かきょ
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科挙(かきょ、繁体字: 科舉; 簡体字: 科?; ?音: k?j?、満洲語: .mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}????
???
???????、転写: gioi ?in simnere[1])とは、中国598年 - 1905年、すなわちからの時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験[注 1]である。同様の制度は中国だけでなく、朝鮮ベトナムにも普及した。科挙の合格者発表(放榜)貢院の号舎

科挙の競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することもあったという。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を過ぎてようやく合格できた例もあった[注 2]。しかし、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強生活と試験の重圧に耐えられず精神障害過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗の逸話など悲話も多い。
概説科挙

科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味する[2]。選挙とは郷挙里選九品官人法などもそう呼ばれたように、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。「科目」とは現代の国語数学などといった教科ではなく、後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も「科挙」と呼ばれ続けた。

古代には父祖の官職の上下に従ってその子孫や親族に官位職階を当てる恩蔭(おんいん)、任子(にんし)、蔭子(おんし)、門蔭(もんいん)などと呼ばれる制度があった[3]任子を参照)。しかし、朝に至り、賢帝として知られる楊堅(文帝)が科挙を初めて導入した。これは家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新的であった。しかし隋からまでの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、官僚たちが新しい支配階級「士大夫」を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はそのもっとも大きな要因だと言われている。士大夫たちは、科挙に合格して官僚になることで地位・名声・権力を獲得し、それを元にして大きな富を得ていた。

建前上、受験資格に制限のない科挙ではあったが、科挙に合格するためには幼いころより労働に従事せず学問に専念できる環境や、膨大な書物の購入費や教師への月謝などの費用が必要で、実際に受験できる者は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。ただし、旧来の貴族の家系が場合によっては六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに比べ、士大夫の家系は長くても4代から5代程度にすぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた。また幕友として働きながら受験する者もいた。

科挙に合格して官僚となることは、本人のみならずその宗族にとっても非常に重要な意味を持っていた。「官本位」と呼ばれる権力中心の中華王朝社会では、一人の人間が官僚となり政治権力の一部となることは、本人だけでなくその者の宗族に莫大な名誉と利益をもたらす。そのため、宗族は「義田」という共同財産を使い「義塾」を開いて子弟の教育を行い、宗族から一人でも多くの科挙合格者を出すことに熱心であった。宗族の一人が官僚となってやがて政治権力の一部を握ると、有力官僚となった者は宗族にさまざまな便宜を図り、宗族のために働くことを期待され、本人もその期待に応えていく。官僚を辞めて地元に戻ってからも、地元の有力者(郷紳)として王朝の官界や地元の官僚へ影響力を行使する。そのため宗族は子弟の一人でも科挙に合格して官僚になれば、在任中と引退後を合わせて半世紀は安泰と繁栄を約束された。

このような需要を当て込んで、文章軌範のような例文集や四書五経の注釈書、各科目に秀でた家庭教師などの受験市場が形成されていた。

科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則はきわめて重く、動機や手口次第では死刑に処される場合もあった。それでも科挙に合格できれば官僚としての地位と名声と富が約束されるとあって、科挙が廃止されるまでの約1300年間、厳重な監視にもかかわらずさまざまな工夫をこらして不正合格を試みる者は後を絶たなかった。手の平に収まるほどの小さなカンニング用の豆本[4]、数十万字に及ぶ細かい文字をびっしりと書き込んだカンニング用の下着が現代まで残っている。

このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に及第した官僚たちは、文選文章軌範などに書かれたような詩文の教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を俗事として賎しめ、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外はすべて卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止されたあとの20世紀前半になっても残っていた。

こういった風潮による政府の無力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。林則徐のように真摯に取り組んだ例もあったが、他の官僚の恨みを買い失脚の憂き目にあっている。また、太学書院などの学校制度の発達を阻碍した面を持っていることは否めない。これに対しては、王安石などにより改革が試みられた例もあったが頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると科挙官僚は「マンダリン」と呼ばれる時代遅れの存在となっていった。これに危機感を抱いた官僚もおり、洋務運動を推し進めた李鴻章が人材育成のため科挙に科学・工学など実学を盛り込む提案をしたり、康有為梁啓超ら「帝党」官僚による戊戌の変法といった形で改革が試みられたが、これらも保守派による反対で失敗した。

ようやく清末の1904年光緒30年)の最終試験をもって、一度は否定した戊戌の変法を倣う形で科挙は廃止された。一方、科挙は今日の世界で標準試験(英語版)の起源であり[5]、19世紀から欧米は西洋の学問にこのメリット・システムを取り入れた[6]
歴史

科挙はの文帝によって始まる。隋より前の六朝時代には、世襲貴族が家柄によって官僚になるという貴族政治が行われていた。それまで採用されていた九品官人法は、貴族勢力の子弟を再び官僚として登用するための制度と化しており、有能な人材を登用するものとは到底言いがたい存在であった。文帝は優秀な人材を集め、自らの権力を確立するため、実力によって官僚を登用するために科挙が始められた。九品官人法は廃止され、地方長官に人材を推薦させたうえで科挙による試験が行われた。推薦よりも試験の結果に重きを置かれ、官僚の採用が決定されることとなった。

隋代の科挙は、秀才明経明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試省試の二段階であった。隋は二代で滅びるが、科挙はその後、に受け継がれた。

唐では、秀才、進士、明法、明書、明算などの科目が設けられた。はじめは秀才科がもっとも重んじられていたものの、受験者が不合格になるとそれを推薦した地方長官まで処罰されたため、受験者が減少し、やがて廃止された。その後、明経と進士の両方が主な科目となる。しかし、経書の単純な暗記能力を試すのが中心であった明経科は軽んじられ、「詩」と「賦」を主な試験内容としていた進士科がもっとも尊重されるようになった[7]。中唐では、進士科は受験者1000人に対し、合格者が1%から2%、その次に重んじられた明経科では、受験者2000人に対し、合格率10%から20%であった。進士科は、当時、士大夫に重んじられた教養である経書、詩賦、策(時事の作文問題)が試験に行われ、合格者は格別に尊重された。進士科合格者は唐代では毎年、30名ほどであった。

最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。省試は吏部の管理下にあったが、開元24年(736年)に礼部に移された。原則として毎年行われており、合格者の再試験である覆試もたびたび実施されている。このときに不正が発覚し、試験官が左遷させられることもあった。

受験資格は、当時の他の諸国に比べると、広範囲にわたる。しかし、女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。このため、商人の子弟である李白が科挙を受験できなかったという説がある。

唐代では科挙は郷試・省試の二段階であったものの、省試の合格者が任官されるためには、吏部において実施される吏部試を受験しなければならなかった。吏部試では「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられ、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるかという点を問われ、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているかということを問うた。そこには貴族政治の名残りが色濃く見られる。

加えて省試の責任者である知貢挙は、その年の進士合格者を門生として知貢挙を座主とする師弟関係を結んだ。これがのちの朋党を生む原因となった。また、人物の評価を考慮した判断が重視されたために事前運動も盛んに行われ、知貢挙に「行巻」「投巻」という詩文や、再度「温巻」という詩文が受験者から贈られた。受験者が高官たちにも詩文を贈ることを「求知己」とよばれ、その援助を受けることを「間接」とよばれた。唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を「公薦」(公的な推薦)することが許され、受験者の名簿を閲覧する「通榜」も行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。いずれにしてもこれらの問題点については、宋代に改められることとなった。

一方で、隋から唐の時代には300年を超える試行期間を経て個人の能力を試験によって評価する科挙制度の体制が作られつつあったが、唐代になっても要途の官僚を膏梁や世冑と呼ばれる世襲の特権階級が占めていた[3]。それでも中唐以降になると科挙出身者の勢力が拡大・拮抗しはじめ、次第に科挙出身の官僚が主流を占めることとなった。

唐代の科挙においては『五経正義』が成立し、この書物により儒教経書に公式の統一解釈が存在するようになり、明経科の試験は行われた。『五経正義』の成立は儒教に一定の地位と根拠を獲得した面もあるが、同時に『五経正義』に基づく注釈が正解という影響を及ぼした[8]
殿試の様子

唐が滅んだあとの五代十国時代の戦乱の中で、旧来の貴族層は没落し権力を握ることはなくなった。北宋を建てた趙匡胤は文治を旨として科挙制度を整備し、皇帝自らが臨席のうえで審査にあたる殿試を、最終試験として課した。殿試の魁選に一甲及第した進士は「状元」「榜眼」「探花」を総称して三魁と呼ばれた。殿試の実施によって、科挙に合格した官僚は皇帝自らが登用したものという感覚が強まり、皇帝の独裁体制を強めるものとなった。

宋代当初は受験科目が進士科と諸科に大きく分けられていたが、王安石の行った科挙制度の改革によって諸科がほぼ廃止され、科目が進士一科に絞られた。本来、進士科は詩文などの才能を問う要素が強かったが、このときより経書歴史政治などに関する論述が中心となった。また、初めて『孟子』が受験必修の書として定められた。王安石のあとに司馬光率いる旧法党が政権を執るが、科挙に関しては旧に復することもなくさらに変更が加えられ、進士科の中に経義を選択するもの(経義進士)とその代わりに詩賦を選択するもの(詩賦進士)が設けられた。北宋の第2代皇帝の太宗もまた太祖の路線を踏襲し、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整え、軍人政治から文治主義への転換をなした。

答案が誰の手により作成されたものかを事前に試験官に分からないように答案の氏名を糊付して漏洩を防止する糊名法や、記述された答案の筆跡による人物判別を防止するため答案を書き改めた謄録法が採用されたのも宋代である。呉自牧著『夢粱録』には、南宋における科挙の実施に関する記事が示されている。

一方で唐中期から五代にかけての社会変革を経て、科挙制を軸とする官僚制が成立した宋の時代になっても、子孫や親族に官位職階を当てる任子(恩蔭)の制度は完全には崩壊せず、新しい時代に合わせて再編成されていった[3]趙翼は『二十二史箚記』で宋代の恩蔭の制度について「宋の恩蔭濫」とする一項を立て、宋代ほど任子が与えられた時代はないとしている[3]。宋代には科挙出身者が圧倒的に優勢になり、恩蔭出身者は下風に置かれていたが、賈昌朝、陳執中、梁適など恩蔭出身者から高官となった者もいた[3]

南宋に入ると、官学生や科挙応試者に対する役法・税法上の優免が慣習として成立し、官と民の間に「士人」と呼ばれる知識人階層が形成される。彼らは階層内部での婚姻を重ねる一方、在地における指導者としての立場を形成していく[9]

宋代の科挙においては特定地域の出身者に偏らないように、会試段階での及第者数の定員が地域ごとに定まっていたものの、省試段階になっていくと試験官が自己の出身地域に有利な評価を下すことがあり、特定の地域への合格者数の偏りを見せる場合もあった。特に南宋期に入るとその弊害が悪化し、福州・温州・明州といった一部の州では合格者数が異常に突出する[注 3]結果も生み出している[10]

宋代の科挙の合格者としては朱熹が科挙に19歳で合格しており、そのほか、蘇軾(1037-1101)が22歳、黄庭堅(1045-1105)が23歳で合格している[11]。また、宋代には新興の士大夫らが儒教を復興させ、唐代の『五経正義』に基づく国家公認の注釈書による教科書的な訓詁学に代わり、周敦頤から程頤を経て義理の追究に重きを置く朱子学陸王心学などの宋明理学が勃興した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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