日本の政治家秋葉 忠利あきば ただとし
2010年
生年月日 (1942-11-03) 1942年11月3日(81歳)
出生地 日本 東京府東京市荒川区
出身校東京大学(学士・修士)
マサチューセッツ工科大学(博士)
前職大学教授
所属政党(日本社会党→)
(社会民主党→)
(無所属→)
(立憲民主党→)
(無所属→)
社会民主党
称号Ph.D.(マサチューセッツ工科大学)
理学修士(東京大学)
理学士(東京大学)
公式サイト秋葉忠利 Tadatoshi akiba - tadakiba ページ!
秋葉 忠利(あきば ただとし、1942年〈昭和17年〉11月3日[1] - )は、日本の政治家、数学者。第33-35代広島市長(3期)、衆議院議員(3期)、社会民主党国会対策委員長(第2代)、同政策審議会長(第3代)を歴任。 日本社会党(後に社会民主党)に所属し、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に大原亨の後継者として出馬し、初当選。以後当選3回。1期目の当選後、筒井信隆らと共に「ニューウェーブの会」を設立し、対案を出す党に社会党を生まれ変わらせることを目指した。 1999年(平成11年)に衆議院議員を辞職し、広島市長選挙に立候補。市民の党の応援を受け、自民党が推薦する元厚生官僚(広島市助役)の大田晋や広島市議会議長経験者など新人5人と激戦の末、初当選する。1999年(平成11年)2月に市長就任、2003年(平成15年)は、再び自民推薦・公明支持の大田晋と古葉竹識の2候補らを破り再選された。2007年(平成19年)は自民推薦・公明支持の柏村武昭前参議院議員、多くの広島市議の支持を受けた大原邦夫
略年譜
1942年(昭和17年)東京府東京市(現在の東京都)荒川区生まれ。
1955年(昭和30年)千葉大学教育学部附属小学校卒業。
1958年(昭和33年)千葉大学教育学部附属中学校卒業。
1961年(昭和36年)東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。
1966年(昭和41年)東京大学理学部数学科卒業。
1968年(昭和43年)東京大学大学院理学系研究科修士課程修了。マサチューセッツ工科大学のジョン・ウィラード・ミルナー の下で研究を続ける。
1970年(昭和45年)マサチューセッツ工科大学でPh.D.を取得、ニューヨーク州立大学講師。
1972年 - 1976年 タフツ大学数学科助教授
1972年 - 1976年 タフツ大学数学科准教授(1976年 - 1988年)
1986年 - 1988年 広島修道大学人文学部客員教授
1988年 - 1997年 人文学部教授。専門領域はトポロジー論、特にホモトピー論であった。後にCNNデイウォッチのキャスターも務めた。
1990年 - 1999年 衆議院議員(3期)
1999年 - 2011年 広島市長(3期)
2011年 - 2013年 広島大学特任教授[2]
2017年 - 第48回衆議院議員総選挙では比例中国ブロックから立憲民主党公認で立候補[3]。比例4位で立候補も落選。
2020年9月 - 立憲民主党を離党したことを党側が公表し、比例名簿からも削除された[4]。
2022年5月25日 - 社会民主党が同年7月執行予定の第26回参議院議員通常選挙に、秋葉を比例区から擁立することを決定した[5][6]。7月10日の投開票の結果、落選。
衆議院議員時代
1991年(平成3年)- 衆議院逓信委員会において、NHKの湾岸戦争の報道姿勢が「賛成よりに偏向しており、非常に強いアメリカのプロパガンダになった」と批判的に取り上げた[7]。
1993年(平成5年)- 社会党シャドーキャビネット科学技術委員長に就任。
1994年(平成6年)- 細川内閣が成立をめざした政治改革四法案にも党議拘束に反して反対票を投じ、党規違反で3ヶ月間の党活動禁止処分を受ける。
1996年(平成8年)- 日本社会党史上最後の委員長選挙に村山富市委員長の再選を阻止すべく出馬するも、村山に惨敗。
1996年9月の旧民主党結党時に多くの議員が社民党を離党した際も残った。秋葉には安全保障政策の相違で入党の誘いが来なかった。
1996年10月第41回衆議院議員総選挙は小選挙区で落選し、比例復活で3選。
社民党時代には党企画調査局長を経て、1998年(平成10年)1月25日、政策審議会長を務めた[8]。
衆議院議員時代に、開運!なんでも鑑定団の国会議員のお宝鑑定(出張!なんでも鑑定団のコーナー)で、広島藩主の書を出品した。
政策
選択的夫婦別姓制度導入に賛同[9]。
広島市長時代
市長選